カテゴリ:見聞( 76 )

野中広務・辛 淑玉『差別と日本人』を読む

野中広務・辛 淑玉, 2009『差別と日本人』角川oneテーマ21(新書)

性別、年代、国籍、思想背景、全く方向性の違う二人の対談である。2編の「まえがき」と2編の「あとがき」を持つほどに「対談」をしながらも二人は異なるものを見てもいた。二人は「差別される側の属性」という一点のみで交わる。これはたいへんおもしろい本だった。とりわけ辛氏の相手の懐に入り込んで話をひきだすインタビューは感動的ですらあった。野中は「あとがき」で述べる。
「気がついたら、誰にも話さなかったようなことをつい口にしてしまっていたりした。「やられた!」という印象だ。とくに対談の最後の部分は、初めて話したことがほとんどだ。これは辛さんが御自分の体験や心情を包み隠さず話してくださったことが大きく影響している」。

強面の策士という印象の野中のもうひとつの側面、差別と闘ってきた姿を前面に出す野中本である。辛による解説も適切で読みやすい。

本書のテーマ「差別」について辛の文章を引用しておく。

決めるのは差別をする側だからだ。そこに合理的な判別基準はない。差別したいとき、人々はその時の差別に都合のよい基準をもっともらしく設けて差別を繰り返す。まず、差別をするという実態が先にあり、それから「部落民」がつくられ、「被差別部落」という空間が形成される。逆ではないのだ。差別する側があいつは「部落民」だと決めればそこから差別が始まる。ようするに関係性の問題なのだ。
自分は他者より優位だという感覚は「享楽」そのものであり、一度その享楽を味わうと、何度でも繰り返したくなる。とくに人は、自分より強い者から存在価値を否定されたり、劣等感を持たされたりしたとき、自己の劣等意識を払拭するために、より差別を受けやすい人々を差別することで傷ついた心のバランスを取ろうとする。(70)

差別は、古い制度が残っているからあるのではない。その時代の、今、そのときに差別する必要があるから、存在するのだ。差別の対象は、歴史性を背負っているから差別されるのではない。
差別とは、富や資源の配分において格差をもうけることがその本質で、その格差を合理化する(自分がおいしい思いをする)ための理由は、実はなんでもいいのだ。部落だから、外国籍だから、朝鮮人だから、沖縄だから、女だから…。自分たちの利権を確保するために資源配分の不平等を合理化さえできれば、その理由などなんでもいい。(168)

d0000059_10250394.jpg


[PR]
by e3eiei | 2018-03-31 10:25 | 見聞 | Trackback | Comments(0)

「ちいさな哲学者たち」を観る

「ちいさな哲学者たち」(2010年)監督:ジャン=ピエール・ポッジ、ピエール・バルジエ

フランスのドキュメンタリー作品。幼稚園で4~5歳児を対象に行われた哲学授業が記録される。教師たちのチーム、そして家庭の親たちも巻き込んで子どもたちが哲学に取り組み、「死」、「愛」、「自由」、「差異」といった抽象的な概念を「考える」ようになっていくプロセスを観ると、「子ども」の可能性がどのように引き出されるかを思わされる。

フランスでは幼稚園教諭は修士学位が必要である。映画冒頭で教育相の「修士資格がただ子守りをするだけの職員に必要か」という発言が紹介される。子どもを育てるという社会の根幹事業は日本だけでなくかの国においても誰でもできる子守として低く見られている。

哲学の授業は教師の問いかけによる問答で進んでいく。先生は子どもの発言を否定しないが、テーマに沿って、なぜ?質問とどう関係がある?と問いかけ、わき道にそれるのを軌道修正しつつテーマを掘り下げるように導く。


頭の中を働かせることをなんと言う?
考えたことは目に見えるかしら?
考えたことをほかの人に知らせるにはどうする?
 ――口から出す。話すんだよ。言葉を出して話すんだ。

きょうは哲学をします。哲学をするってどういうこと?


では質問よ、リーダーって何? 幼稚園の中にリーダーはいる?


哲学授業に取り組む教諭たちは語る。
“最初に哲学をやると決めたとき、考える訓練になると話を。-それを超えたかった。

友達とは?
友達と恋人の“好き”は同じ?

下校時親の迎えの場面では、子どもたちは子ども「たち」ではなくひとりひとりの子どもとして大切に預かられていることが見える。ひとりずつ親を確認して子どもを引き渡す。「ヤニス、お迎えよ」「ジョナタン!」「イネスのお迎えですよね? ――イネス!」

頭がいいってどういうこと?
どうして?
質問とどう関係があるか説明してみて。


恐怖とは?


死とは何かしら?


テーマは変わる。わたしたちを取り巻く世界について考えるの。
今日のテーマは愛よ。愛って?

 ――恋人は男の子じゃなきゃ。法則さ。
法則って?
 ――交通法みたいなもの。愛の法則。
 ――恋人二人は同じ意見じゃないとダメなの。恋人たちはごめんなさいを言えないとダメ。謝れないと愛はおしまい。


死とは
 ――ぼくたちは自殺しちゃいけないんだ
 ――死んだ人は息をしてない、動かない。
 ――死ぬと神様のいる天国に行く。皮膚じゃなくて魂がいくんだ。
ママが死んだらみんなは何を?
 ――ママが死んだら自殺を
どう?
 ――彼のパパがさびしくなる。あなたのことが恋しくなるわ。
 ――ヤニスには反対。ママもヤニスも死んだらもう学べなくなる。過ぎていく人生。
 ――ヤニスには反対。ママが死んだらパパと一緒にいてあげなきゃ。ママは心の中に残るからいつでも思い出せる。


違いとは?


 ――知りたいわ。なぜ貧しい人たちは貧しいの?
いい質問ね


少年が意見の対立した女子を叩く。教師は少年を教室に残して目線を合わせ、懇々と説く。
ヤニス来なさい。彼女を叩いて解決になるの?どう?
 ――わかんない
ほかの子を叩く以外に問題を解決する方法は?ないの?どう?わたしを見て。答えられるでしょ。叩けば解決するの?“はい”なの?“いいえ”?ではどう解決を?考えて。叩く前に何を?ここで一緒に何を学んでいるの?哲学で意見が合わなかったら相手をたたくの?何をするの?
 ――なにも。
話すんでしょ。話し合わない?ほんとうのことを言って、哲学の授業ではどうしてる?
 ――わかんない。
ヤニス。言葉で話し合うんでしょ。人と意見が違うこともある。だからって叩くのは解決にならない。まず話すの。
 ――うなずく。
行って。

教師たちはこのプログラムの継続を訴える。”優先教育地区(ZEP)の中で2つの幼稚園においてこのプログラムが行われてきた。ここの子どもたちに必要と考えられたからよ。中止されれば教育面でも経済面でも子どもたちにとって損失になる。彼らの環境を第一に考えて。”

自由とは。
わたしは自由かしら?
 ――そう。生徒に質問するから自由。

お腹に子どもがいると違う?何が自由の邪魔に?
 ――お腹の子ども
子どもに決定権が?
 ――違う、決めるのは先生よ。
答えて、イネス。
 ――ニンシン?妊娠してるの?
 ――男の子。
わかるの?
 ――双子だ。すごい、男がいい。
 ――子どもたち大興奮。
(唇に指をたて)静かに、口を閉じて。集中しましょう。いまの意見を掘り下げて。“大人は自由”これに反対の人もいたわね。先生は自由?パパやママは自由で何でもできるかしら?
キリアが最後よ。自由とは?
 ――自由とはちょっとひとりになれること。息抜きができて優しくなれること。
 ――外にひとりで行くこと。


いつも考えてるわけじゃない。考えるのは好き?
 ――いいえ。
どうして?
 ――だって長くかかるから。
 ――好きよ。だって、あとで何かするときに役に立つ。
ほかの人もきかせて。
 ――わたしは考えるのが大大大好き。夢を見るのと考えるのは同じだから。そして夢を見るのはすてきだから。
 ――ぼくは嫌い。無理強いされるから。
誰が無理強いを?
 ――先生。
どう無理強いを?
 ――いつも哲学する。
無理に?
 ――女の子たちが無理強いする。“考えて!”
答えを強制されるのがいやなの?
 ――ぼくのからだの中にいるみたいに指図しないでよ。男の子は“考えなくていい”と言うぞ。女にはうんざりだよ。
 ――幼稚園を卒業して小学校に入ったら哲学の授業がなくなってみんな考えられなくなる。この幼稚園を卒業したら、
 ――なくなる!
 ――来年はここにはいないけど僕は哲学やりたい。哲学やりたいのは、考えるのが好きだから。

 ――お砂場でアビとヌディクーとわたしと、ルイーズとレアと話をした。最初は3人で話してた。死と愛について話をしたの。






[PR]
by e3eiei | 2018-03-29 10:54 | 見聞 | Trackback | Comments(0)

『1984年』を読む

ジョージ・オーウェル, 1949=高橋和久 新訳, 2009『1984年』ハヤカワepi文庫.

2018年3月の日本でこの小説を初めて/改めて読んだ人は多いだろう。日本社会のマスメディア統制、特定機密保護法による言論の統制など、徐々に進行する全体主義のベールが剥がれ落ちようとしているときに、まさに全体主義権力がつきすすんだ社会を描いたこの小説が読まれることは必然的であると思われるし、意義深い。

小説は大部で全体主義社会を描くテーマは輻輳しているが、わたしは過去の改竄が強く印象に残る。それは歴史の修正にとどまらず個人の心性にまで踏み込む改竄となるように描かれているのだ。

作品はこの時代の3大国のひとつとされるオセアニアに住むウィンストン・スミスという39歳の男性「党員」を主人公として進む。

ウィンストンの住む国家では「ビッグ・ブラザー」と呼ばれる神秘的存在による独裁と信じ込まれており、党政府はイングソックと呼ばれるイデオロギーに基づいて人々を統治する。「真理省」(党の不可謬性・真理性を守るために過去のあらゆる記録を改竄する)、「愛情省」(思想警察による拷問、洗脳、処刑)、「平和省」(戦争遂行)、「潤沢省」(再配分を行い、人々は常に貧困)で行政が行われることになっている。
党のスローガンは「戦争は平和である/自由は屈従である/無知は力である」という二重思考に基づくもの。

「党員」たちは二重思考を植え込まれる。保身や忖度のために白を黒と表明するのではなく、白は白であり同時に黒である、2+2=4であり同時に2+2=5であると信じていること。党員たちはそのような思考に馴致される。また、「ニュースピーク」による言語統制も厳しく、語彙は極力統合されて減らされ、言葉のないところに思考は成立しないことになる。文学、芸術、美・醜、性愛に至る個人のアイデンティティを構成するような感情レベルまで管理が行き届いている。「党員」の各部屋には双方向送受信のテレスクリーンが設置されて私生活も24時間監視される。教育を受けた子どもたちは親を密告する。

ここでは過去は可変的で、ウィンストンの仕事は真理省で過去の記録を改竄することである。データは常に政府の都合に従って書き換えられ、現在の書き換えデータが「真理」であるように過去の数字、写真、報道に至る一切を改竄するのが彼の部署の仕事である。
過去ばかりではなく現実さえも可変的構築物であるように描かれる。「憎悪週間」のフェスティバルのさなかに政府が交戦国はユーラシアではなくイースタシアであると発表するや否や、それは既知の事実となり、街中を埋め尽くしていた「敵はユーラシア」という「間違った」ポスター・横断幕・演説は書き換えられ、過去の書類、新聞、書籍に至るまで大急ぎで作り直される。

二重思考は個人の記憶さえ書き換え、人は過去のことなどどうでもいいと思うようになっている。「党員」たちの感情は毎日の「二分間憎悪」によってファナティックに発散される。毎日その時間に従業員は一室に集められ、テレスクリーンに従って足を踏み鳴らし声の限りに憎悪を叫ぶのだった。さらに街のフェスティバルは「憎悪週間」としてここでも憎悪がかきたてられる。つねに「敵」を作り出しては叩き続けるのだ。人々は自国が長年戦争状態にあり、常にきわどい戦いに勝利し続けていると信じている。だが「戦争」すら作り上げられたもの、真実らしく見せるために随時市中で爆弾を炸裂させ憎悪を掻き立てさせていることが暗示される。

問題はこういう世界でウィンストンが二重思考をとれないことであった。そのため彼は記憶をたどろうとし、不安を覚え、懐かしい気持ちや愛情さえ抱く。3部構成でこのくたびれた中年男の1984年的行く末を描く。
d0000059_11541683.jpg





[PR]
by e3eiei | 2018-03-23 12:12 | 見聞 | Trackback | Comments(0)

お正月休みにむけてミステリが続々(備忘)

アマゾンがインドリダソンの新作を勧めてきた。

●『声』アーナルデュル・インドリダソン 、訳・ 柳沢 由実子
捜査官エーレンデュルとその仲間による、例によっておそらくは冷たく暗く哀しい背景をもつミステリと思われる。
それでうっかりいろいろ見ていると、しばらく出てこなかった新作をあれこれと見つけてしまった。

●『ミレニアム 4 蜘蛛の巣を払う女(上・下)』ダヴィド ラーゲルクランツ 、訳・ヘレンハルメ 美穂 ・羽根 由
これはスティーグ・ラーソンが遺していた遺稿ではなく、新たにラーゲルクランツという人が書き起こしたものらしい。
経緯はこの記事(杉江松恋)にくわしい。記事によると各国の評価もまずまずということになっている。何かハリウッド的に変貌しているのではないことを祈りたい。
ラーソンが亡くなった際にパートナーのエヴァ・ガブリエルソンがその遺稿を手にし、親族との間で相続をめぐるあれこれがあるということを読んだ気もするが、結局そのままになっているのだろうか。もったいないことだ。
12/22になってアマゾンのコメントにはハリウッド的に変貌してしまってつまらない、という評価と、ますます面白くなったという評価が併記された。まあ、そういうことだろう。私はリスベットをつうじて、虐げられた者、とりわけ女性に対する作者のあたたかいまなざしと暴力への糾弾がこの作品群の独自性の一つだと評価しているが、ラーゲルクランツもその点は踏襲しているようだ。

●『特捜部Q―吊された少女― 』ユッシ エーズラ・オールスン、訳・吉田 奈保子
Qの面々の繰り広げるあれこれは面白いが、事件の描写が気持ち悪くて『64』で読むのをやめてしまった。これもたぶん買わないだろう。

●『霜の降りる前に上・下』ヘニング・マンケル、訳・柳沢 由実子
これは来月発売。いよいよ娘が警察官になるらしい。が、マンケルもなんというかハリウッド化を想定したような舞台設定と筋の運びが鼻について、一旦は読むのをやめてしまっていた。

そうだそうだ、そして、今年の4月に満を持してリーバス(元)警部が還ってきた。ほんとうに待ってたのよ~~。『他人の墓の中に立ち』(訳・延原 泰子)。ランキンのもう一つのシリーズ、警部補マルコム・フォックスとクロスするという筋立てだったが、リーバスの持ち味が失われてしまったような作品だった。一匹狼的な捜査とはいえ、そこは組織の人間としての葛藤もあり、シボーンとの同僚としての絡みもあって面白かったんだけど、あまりにも一人の世界だけが展開されていて、謎解きも独りよがりでつまらなかった、記憶がある。・・・

ミステリーとしてはそのほかに単発的にP.ルメートル『その女アレックス』、アン・クリーヴスの四季シリーズなどを読んだが、魅せられるものはなかったんだろう、記憶に残っていない。



[PR]
by e3eiei | 2015-12-23 17:13 | 見聞 | Trackback | Comments(0)

2015年前半に観た映画

2015年前半は、14年の暮れにカウリスマキボックスを買ったので、ひとりでキートス!カウリスマキの続きを仕上げた。
そのあとは主に成瀬巳喜男と高峰秀子の映画を見た。東宝から成瀬巳喜男DVD10枚シリーズを出したのでそれを買った。
その合間に見た映画では、マイク・リー監督がよかった。

  • 「真夜中の虹」1988年、監督・脚本:アキ・カウリスマキ。労働者三部作二作目(負け犬三部作第1作)。出演:トゥロ・パヤラ(カスリネン)、スサンナ・ハーヴィスト(イルメリ)、マッティ・ペロンパー(ミッコネン)。鉱山廃坑に伴って失業したカスリネンと、食肉工場で働くシングルマザーのイルメリ、脱獄をともにするミッコネン。最後に暗い埠頭からメキシコに向けて船は出てゆく、「オーバー・ザ・レインボウ」に乗せて。

  • 「マッチ工場の少女」1990年。監督・脚本:アキ・カウリスマキ。労働者三部作三作目(負け犬三部作第2作)。出演:カティ・オウティネン(イリス)、エリナ・サロ(母)。マッチ工場で働き母と義父の世話をする孤独なイリスは、ダンスホールで出会った男、義父から踏みにじられ殺鼠剤を盛る。とても救いのないストーリーだった。カティ・オウティネンは若い時から老成した顔立ちだが、それでも瑞々しい表情がかわいらしかった。天安門事件を報じるニュース映像が興味深かった。

  • 「コントラクト・キラー」1990年。監督・脚本・製作:アキ・カウリスマキ。負け犬三部作第3作。出演:ジャン=ピエール・レオ(フランス人アンリ)、マージ・クラーク(花売りマーガレット)。舞台はロンドン。

  • 「ラヴィ・ド・ボエーム」1992年。監督・脚本・製作:アキ・カウリスマキ。出演:マッティ・ペロンパー (画家ロドルフォ)、アンドレ・ウィルム(作家マルセル)、カリ・ヴァーナネン(作曲家ショナール)、イヴリヌ・ディディ(ミミ)。三人の男たちのボヘミアン生活とロドルフォの恋人ミミの暮らしを白黒映像で描く。経済学者の父ヨルマ・カウリスマキに捧げられた。舞台はパリ。 ※かわいい三輪自動車はリライアント・ロビン。

  • 「レニングラード・カウボーイズ・ゴー・アメリカ」1989年。監督:アキ・カウリスマキ。出演:マッティ・ペロンパー、ザ・レニングラード・カウボーイズ 。

  • 「愛しのタチアナ」1994年。監督・脚本:アキ・カウリスマキ。出演:マッティ・ペロンパー(整備工レイノ)、カティ・オウティネン(エストニア人タチアナ)、マト・ヴァルトネン(仕立て屋ヴァルト)、キルシ・テュッキライネン(ロシア人クラウディア)。マッティ・ペロンパー遺作となる。

  • 「白い花びら JUHA」1998年。監督・脚本・製作:アキ・カウリスマキ。原作:ユハニ・アホ。出演:サカリ・クオスマネン(ユハ)、カティ・オウティネン(マルヤ)、アンドレ・ウィルム(シュメイッカ)、エリナ・サロ(シュメイッカの姉)。白黒・無声映画。

  • 「街のあかり」2007年。監督・脚本・製作:アキ・カウリスマキ。出演:ヤンネ・フーティアイネン(警備員コイスティネン)、マリア・ヘイスカネン(ソーセージショップのアイラ)、マリア・ヤンヴェンヘルミ(悪党の女性ミルヤ)、イルッカ・コイヴラ(悪党)。

  • 「カラマリ・ユニオン」1985年。監督・脚本:アキ・カウリスマキ。15人のフランクが「エイラ」を目指し次々と死んでいく。出演:マッティ・ペロンパー 、サカリ・クオスマネンほか。霊柩車のドライバーとしてカウリスマキも出演している。 途中で寝てしまった。

  • 「セントラルステーション」1998年、ブラジル。監督:ヴァルテル・サレス。出演:フェルナンダ・モンテネグロ(代筆業ドーラ)、ヴィニシウス・ジ・オリヴェイラ(少年ジョズエ)。フェルナンダ・モンテネグロという女優さんはWikipediaによると1929年生まれとなっているので、この映画のときには69歳!!すごいバイタリティーだ。

  • 「人生は、時々晴れ(原題: All or Nothing)」2002年、イギリス。監督・脚本:マイク・リー。出演:ティモシー・スポール(フィル)、レスリー・マンヴィル(妻ペニー)、アリソン・ガーランド(娘レイチェル)、ジェームズ・コーデン(息子ローリー)、ルース・シーン(友人ドナ)。ロンドン団地住まいの労働者階級の煮詰った日常。

  • 「スウィート ヒアアフター」1997年、カナダ。監督・脚本:アトム・エゴヤン。原作:ラッセル・バンクス『この世を離れて』。出演:イアン・ホルム(弁護士ミッチェル)、サラ・ポーリー(ニコール)、トム・マッカムス(ニコールの父親サム)、ガブリエレ・ローズ(バスの運転手ドロレス)。 小さな雪の町で起きたスクールバスの転落事故、訴訟を勧める弁護士ミッチェルとそれに乗る住民、阻止する住民、はーめるんの笛吹き男の寓話にそって進行する。通奏低音としてのインセスト・タブー。飛行機で乗り合わせたアリソンは、別れ際に「アリー」と呼びかけるミッチェルになぜ「アリソンと」と敢えて訂正したのだろう。弁護士とゾーイのエピソードの意味がうまくつかめなかった。

  • 「ソフィーの選択」1982年、アメリカ。脚本・監督:アラン・J・パクラ。原作:ウィリアム・スタイロン。出演:メリル・ストリープ(ソフィー)、ケヴィン・クライン(ネイサン)、ピーター・マクニコル(スティンゴ)。封切り当時見て以来で、「現在」のストーリーは記憶からはまったく欠け落ちていた。

  • 「我が家は楽し」 1951年、監督:仲村登。原作 : 田中澄江。出演:笠智衆・山田五十鈴、高峰秀子、岸恵子、佐田啓二。 ずいぶん前に一度テレビで見てしみじみした印象が残っていた。今回見直してみると、こんなものだったかなあとちょっと肩透かしだった。

  • 「秀子の車掌さん」1941年、監督:成瀬巳喜男、原作:井伏鱒二『おこまさん』。出演:高峰秀子、藤原鶏太、夏川大二郎。 最後のシーンが不可解な第一印象を得た。新たな一歩を意気揚々と踏み出したハッピーエンドのはずが、高みに上ったまま梯子をはずされたような肩透かしを食わされるのだ。なんだろうと考えると、1941年の開戦前夜の閉塞感をあらわしているのかなどと考える。一見アイドル映画のようだが、それにとどまらないものを考えさせられる。高峰秀子17歳という演技力も驚きだ。若々しくてかわいい。

  • 「めし」1951年、監督:成瀬巳喜男、原作:林扶美子。出演:原節子、上原謙。

  • 「稲妻」1952年、監督:成瀬巳喜男、原作:林扶美子。出演:高峰秀子(小森清子)、浦辺粂子(母、おせい)、三浦光子(次姉、光子)、村田知英子(長姉、お縫)。 異父きょうだいの末っ子清子が、下町の教養のない何かといがみ合っているプライバシーもない家に嫌気がさし、山の手の本箱に本が詰まっている暮らしにあこがれて家を出る。母娘の絆のディレンマ。

  • 「なつかしの顔」1941年、監督:成瀬巳喜男、出演:馬野都留子(母)、花井蘭子(長男の嫁)、小高たかし(小学生の二男)。 徴兵された長男がニュース映画に出るというので町まで見に行く母と妻。母はみる前から涙が出て手拭いを探す間に息子をみそこなう。妻は映画館に入ることができずにみそこなう。徴兵された大切な人の戦場でのひとこまを観ることができないという仕立てで残された女性たちのつらさを描いているように思われる。

  • 「銀座化粧」1951年、監督:成瀬巳喜男、出演:田中絹代(雪子)、花井蘭子(静江)、香川京子(京子)、三島雅夫(藤村)。 銀座のクラブを任されている田中絹代は元「旦那」との間に子供がいる。日々を精いっぱい生きる銀座のママたち。

  • 「煙突の見える場所」1953年、監督:五所平之助、原作:椎名麟三。出演:田中絹代(弘子)、上原謙(緒方­隆吉)、芥川比呂志(久保健三)、高峰秀子(東仙子)。下町のお化け煙突の見える足立区千住のしもた屋。1階の弘子夫婦と2階に間借りする男女。弘子の元夫が赤ん坊を置き去りにしたことでそれぞれの人間性がみえてくる、コメディ仕立て。

  • 「浮雲」1955年、監督:成瀬巳喜男(原作:林芙美子)、出演:高峰秀子(ゆき子)、森雅之(富岡)。 昭和21年仏印で不倫関係にあった男女が引き揚げた後の混乱の中で切っても切れない関係が続いていく大メロドラマ。最後は屋久島で高峰秀子が亡くなる。

  • 「長い散歩」2006年、監督:奥田瑛二、脚本:山室有紀子、桃山さくら。出演:緒形拳(安田松太郎)、杉浦花菜(横山幸(サチ))、高岡早紀(横山真由美)、松田翔太(ワタル)。 家族へのパワハラの罪の意識を負う退職校長。アパートの隣室で虐待される幼児を連れ出して長い散歩に出かける。自らの贖罪のために。子供は徐々に心を開くが、校長は誘拐罪で服役する。最後に刑期を終えた校長が出所するシーンで、何一つ変わっていないことが暗示される。それぞれの役者の持ち味が発揮されていたが、そして問題提起にはなっていたが、せつない映画だった。

  • 「そして父になる」2013年。監督・脚本:是枝裕和。福山雅治(野々宮良多)、尾野真千子(みどり(良多の妻))、リリー・フランキー(斎木雄大)、真木よう子(ゆかり)。

  • 「小さいおうち」2014年。監督・脚本:山田洋次。原作 :中島京子。松たか子(平井時子)、倍賞千恵子(タキ - 晩年期)、黒木華(タキ - 青年期)、片岡孝太郎(平井雅樹)、吉岡秀隆(板倉正治)。

  • 「流れる」1956年、監督:成瀬巳喜男、(原作:幸田あや)。出演:山田五十鈴(つた奴)、杉村春子(染香)、高峰秀子(勝代)、お春(田中絹代)。凋落する柳橋の置屋「つた家」に住み込むお手伝いのお春(田中)と芸者になじまない娘勝代(高峰)を配し、時代の流れのなかで取りこぼされながらそれに気づかないつた奴を飲み込む残酷な運命を描く。

  • 「山の音」1954年、監督:成瀬巳喜男(原作:川端康成)。出演:原節子(菊子)、山村聡(尾形信吾)、上原謙(尾形修一)、長岡輝子(尾形保子)。

  • 「女が階段を上る時」1960年、監督:成瀬巳喜男、脚本:菊島隆三、音楽:黛敏郎。出演:高峰秀子(ママ・矢代圭子)、仲代達也(小松)、森雅之(銀行支店長・藤崎)、団令子(純子)、加藤大介(関根)。黛敏郎のジャジーな音楽がいい。

  • 「娘・妻・母」1960年、監督:成瀬巳喜男。出演:三益愛子(母・坂西あき)、原節子(長女・早苗)、森雅之(長男・勇一郎)、高峰秀子(その妻・和子)、宝田明(二男・礼二)、淡路恵子(その妻)、草笛光子(二女・薫)、小泉博(その夫・英隆)、杉村春子(英隆の母)、団令子(三女・春子)、仲代達矢(黒木信吾)、中北千枝子(早苗の友人・戸塚)。お金と母の扶養を巡るエゴイズムのぶつかり合いから崩壊に向かう家族を描く。 60歳還暦を迎える母(三益愛子)のなんとおばあさんおばあさんしていることだろう、半世紀前の年齢感覚に愕然とする。それを考えると長男(森雅之)も40歳そこそこと思うがこれもかなり年をとっているし、35歳設定の原節子も貫禄がある。

  • 「放浪記」1962年、監督:成瀬巳喜男、原作:林芙美子。出演:高峰秀子(林芙美子)、田中絹代(母)、加藤大介(安岡信雄)、仲谷昇(伊達)、宝田明(福池貢)、草笛光子(日夏京子)。 高峰秀子の役作りがすごい。

  • 「乱れる」1964年、監督:成瀬巳喜男。出演:高峰秀子(森田礼子)、加山雄三(二男・森田幸司)、三益愛子(母・しず)。酒屋を営む兄嫁と弟の破滅に向かう恋。最後は銀山温泉で加山雄三ががけから転落して亡くなる。 銀山温泉ののみ屋のおかみさん(浦辺粂子)が60年生きてきたというが、そのおばあさんぶりが凄まじい。

  • 「乱れ雲」1967年、監督:成瀬巳喜男、音楽:武満徹。出演:司葉子(江田由美子)、加山雄三(三島史郎)、草笛光子(文子・由美子の姉)、森光子(四戸勝子・由美子の義姉)。交通事故で夫を失った司葉子と、夫を轢いた加山雄三の結ばれることのない愛。武満徹の音楽が情感豊かでとてもいい。カラーの映像もとても美しい。

  • 「おかあさん」1952年、監督:成瀬巳喜男。出演:田中絹代(おかあさん・福原正子)、香川京子(長女・年子)、三島雅夫(夫・福原良作)、中北千枝子(正子の妹・則子)、加東大介(木村)。Youtubeで視聴したが、途中で切れていた。残念。

  • 「あにいもうと」1953年、監督:成瀬巳喜男、原作:室生犀星。出演:京マチ子(もん)、久我美子(さん)、森雅之(伊之吉)、浦辺粂子(母・りき)、山本礼三郎(父・赤座)、船越英二(小畑)。 互いを思いやる兄と妹の、不器用なために暴力も加わる激しい応酬となる家族の関係。兄が森雅之だとは最後まで気がつかなかった。

  • 「本日休診」1952年、監督:渋谷実、原作:井伏鱒二。出演:柳永二郎(三雲八春)、田村秋子(湯川三千代)、佐田啓二(湯川春三)、湯川春三(加吉)、淡島千景(お町)、三國連太郎(勇作)。

  • 「善き人のためのソナタ Das Leben der Anderen」2007年、ドイツ。監督:フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク、音楽:ガブリエル・ヤレド。出演:ウルリッヒ・ミューエ(ゲルト・ヴィースラー大尉・HGW)、マルティナ・ゲデック(クリスタ=マリア・ジーラント)、セバスチャン・コッホ(ゲオルク・ドライマン)。1984年東ベルリン、劇作家ドライマンに対するシュタージの盗聴の任に当たるヴィースラーは、監視を通じて人間性に目覚める。

  • 「洲崎パラダイス 赤信号」1956年、監督:川島雄三、原作:芝木好子。出演:新珠三千代(蔦枝)、三橋達也(義治)、轟夕起子(お徳:千草のおかみさん)。

  • 「故郷」1972年、監督:山田洋次。出演:倍賞千恵子(石崎民子)、井川比佐志(精一)、笠智衆(仙造)。瀬戸内海の石運搬船を営む夫婦が、高度経済成長の波に乗り切れずに故郷の島を離れ尾道に出て行く。 


[PR]
by e3eiei | 2015-09-02 00:33 | 見聞 | Trackback | Comments(0)

『忘れられた巨人』(カズオ・イシグロ)を読む。

カズオ・イシグロ(2015)土屋政雄訳『忘れられた巨人』早川書房.

アーサー王のころを舞台に老夫婦を主人公としたファンタジー物語風の作品だった。読み始めは、人の記憶と捕まえようとするとすっと遠のく認識像を描き、『充たされざる者』のような意識世界を描くのかと楽しみにしてみた。読み終えるとそういうわけではなく、むしろ現代社会に対するメッセージを直接に強く感じるような寓意性の強い作品であった。
クエリグという雌龍の吐く息による霧がかかり人々全体が忘却のなかにいる。何か大切なことがあったような気がしていても、眼前のことに気持ちを奪われたりするのだった。
このクエリグを殺して記憶を取り戻すこと(の是非)が物語の底流となる。人が皆忘れてしまっているということの意味、それを思い出し記憶にとどめるというのはどういう意味を持ち始めるのかということを作品は問う。

忘却と記憶のテーマは「夫婦の愛情」、そして「戦闘と平和」という二つの主題にそって進行する。
「ほら、アクセル、この手をとって、勇気が萎えそうなわたしを支えて。だってね、霧が晴れるのを恐れているのは、あなたより、むしろわたしだと思う。さっきあの石のわきに立っていたときにね、不意に、昔あなたにひどいことをしたような気がしてきました。その記憶がすっかり戻ってくるとしたら…手が震えているのがわかる? あなたはどう言うかしら。わたしをこの吹きさらしの山に捨てて、去ってしまわないかしら。だから、あの勇敢な戦士を前に見ながら、あの方に倒れてほしいと願う気持ちさえあるの。でも、やはり隠れることはしたくない。それはいや。あなたも同じじゃない、アクセル? 二人で一緒に歩いてきた道ですもの、明るい道でも暗い道でもあるがままに振り返りましょう。(p.364)
「わたしは息子の墓に行くことを妻に禁じたんです、船頭さん。残酷なことでした。息子の眠る墓に妻は一緒に行きたがった。わたしははねつけた。・・・/「息子さんの墓参りを奥さんだけでなくご自身にも禁じるとは、それで何をしたかったのですか。/「したかった? したかったことなどありません、船頭さん。ただ愚かだっただけです。それと自尊心。そして人間の心の奥底に潜む何か。もしかしたら罰したいという欲望だったかもしれません。わたしは許しを説き、実践していました。しかし、復讐を望む小さな部屋を心の中につくっていて、そこに、長年、鍵をかけてきました。つまらないことで妻にひどいことをしました、息子にもです。(p.404-5)
「教えておくれ、お姫様」爺さんが言っている。「おまえは霧が晴れるのを喜んでいるかい」/「この国に恐怖をもたらすかもしれないけど、わたしたち二人にはちょうど間に合ったって感じね」/「わたしはな、お姫様、こんなふうに思う。霧にいろいろと奪われなかったら、わたしたちの愛はこの年月をかけてこれほど強くなれていただろうか。霧のおかげで傷が癒えたのかもしれない」(p.410)
忘却の霧が晴れることで見えてくる記憶は、あまりにも禍々しいものだった。記憶を取り戻すことで禍々しい過去の自分と再び直面せざるを得なくなる。傷を負った二人の過去と向き合わないわけにはいかなくなる。忘却によって愛は強くなっていったのか。
そして、もう一つのテーマは憎悪と戦闘と平和。
「・・・あれから長い年月を経たとはいえ、この息が止まったとき、いまでも国中で何か起こりうるか考えてみよ。われわれは多くを殺した。認める、強き者弱き者の区別なく殺した。あのときのわれらには神も決してほほえまなかったであろう。だが、この国から戦が一掃されたのも事実だ。この国を去りなされ。お願いする。貴殿とは祈る神が違えど、貴殿の神もこの龍には祝福を賜るのではないか」/ ウィスタンは穴に背を向け、老騎士を見た。/「悪事を忘れさせ、行った者に罰も与えぬとは、どんな神でしょうか、騎士殿」(p.369)
「何のことでしょう、戦士様」とベアトリスが尋ねた。「これから何かあると言うのですか」/「正義と復讐です、奥さん。これまで遅れていた正義と復讐が、今や大急ぎでこちらへやってきます。もうすぐです。わたしの心が今乙女のように震えているのは、わたしがあなた方の間に長くいすぎたからに違いありません」/「最前おっしゃった言葉が耳に残っています」とアクセルが言った。「平和のうちに進めと言いながら、もはや平和などありえないとも言われました。・・・」/「アクセル殿はわかりはじめておられるようです。わたしの王が雌龍退治を命じられたのは、かつて虐殺された同胞への記念碑を建てるためだけではありません。もうおわかりでしょう。龍退治は、来るべき征服に道を開くためです」(p.382-3)
「ほんとうにな、お姫様。戦士殿の言葉にわたしは震える。お前とわたしは、懐かしい記憶を取り戻したくてクエリグの死を望んだ。だが、これで古い憎しみも国中に広がることになるのかもしれない。二つの民族の間の絆が保たれるよう、神がよい方法を見つけてくださることを祈るしかないが、これまでも習慣と不信がわたしたちを隔ててきた。昔ながらの不平不満と、土地や征服への新しい欲望――これを口達者な男たちが取り混ぜて語るようになったら何が起こるかわからない」/「恐れて当然です、アクセル殿」とウィスタンが言った。「かつて地中に葬られ、忘れられていた巨人が動き出します。遠からず立ち上がるでしょう。その時、二つの民族の間に結ばれた友好の絆など、娘らが小さな花の茎で作る結び目ほどの強さもありません。男たちは夜間に隣人の家を焼き、夜明けに木から子供を吊るすでしょう・・・」(p.384)
ここでも著者は忘れることによって平和が生み出され維持されてきたと語る。記憶を取り戻すことは復讐の戦闘へと向かう契機になる、というよりむしろ積極的に戦闘し征服する理由となる記憶を取り戻そうとするのだ。戦闘をする根拠になるかつて傷つけられた記憶と憎悪、復讐心を掻き立てるために、忘却の霧を吐き続ける龍を殺して記憶を取り戻すのだと。

前作の『わたしを離さないで』もそうだったが、現代社会にある社会問題を一つの物語に封じ込めてメッセージを伝えるという手法のようだ。
前作では先端再生医療に潜在する尊厳の問題を、SFに仮託して描いた。主人公たちが子どもであったために哀しみと懐かしみのあるテイストが基調だった。
本作は中世の物語であり、主人公も高齢、せりふ回しも時代がかっていたためか、少し読みにくさがあった。
d0000059_00160032.jpg
追記(8月29日)
最後のところを考えていた。アクセルはベアトリスとともに息子の眠る島に渡るつもりでいた。しかし、船頭はひとりずつしか船には乗れないという。
夫の姿をもうとらえることもできなくなっていて、船の中で「島」に渡る準備をすませている妻を、夫は抱きしめて別れを告げる。
「じゃ、さようなら、アクセル」
「さようなら、わが最愛のお姫様」
これは島を往復する小舟をほんの束の間待つ人たちの交わす挨拶ではない。二人は口には出さないが最期の挨拶であることを知っていた。
そしてアクセルは船頭を見ようともせず、海に背を向けてどんどん陸の方に歩いていく。




[PR]
by e3eiei | 2015-08-28 11:03 | 見聞 | Trackback | Comments(0)

備忘 芥川龍之介「桃太郎」そして「手巾」

ちょうどひと月ほど前、青空文庫をぱらぱら見ていて芥川龍之介の作品をいくつか読んだ。
その中でも「桃太郎」は昭和初期当時の不安だけではなく、その数十年後の世紀末に至るまでをも予言しているようで非常に気持ちが掻き乱された。

ストーリーはお伽噺の「桃太郎」のパロディーとも読める。勇敢に「鬼征伐」に赴いた桃太郎の活躍を、鬼の立場から再構成した物語だ。何の過ちも無礼も働いていない鬼が島の鬼たちは、怠惰で強欲な桃太郎が「鬼が島を征伐したいと志した故」に攻め入られ、残忍に殺され、凌辱され、生け捕られる。
芥川の「桃太郎」で作者の筆が冴えわたり本当に怖いと思うのは、最後の2章、とりわけ2つのパラグラフだ。
桃太郎の凱旋は日本中の子どもたちがよく知っているが、と言っておいて、しかし生き残った鬼はときどきやってきては桃太郎を襲おうとしたので桃太郎は幸福に余生を送ったわけではなかった、と続ける。そして次のように結ぶのだ。
 その間も寂しい鬼が島の磯には、美しい熱帯の月明りを浴びた鬼の若者が五六人、鬼が島の独立を計画するため、椰子の実に爆弾を仕こんでいた。優しい鬼の娘たちに恋をすることさえ忘れたのか、黙々と、しかし嬉しそうに茶碗ほどの目の玉を赫かせながら。・・・
 人間の知らない山の奥に雲霧を破った桃の木は今日もなお昔のように、累々と無数の実をつけている。勿論桃太郎を孕んでいた実だけはとうに谷川を流れ去ってしまった。しかし未来の天才はまだそれらの実の中に何人とも知らず眠っている。あの大きい八咫鴉は今度はいつこの木の梢へもう一度姿を露わすであろう? ああ、未来の天才はまだそれらの実の中に何人とも知らず眠っている。・・・
欲に目のくらんだ男が根拠の薄弱な殺戮の限りを尽くした土地では、テロリストを生み出した。
そして、桃のなかには「未来の天才」がまだ何人とも知らずにぶら下がっているのだ。


芥川の作品を長い間敬遠していた。何となく義務教育の教科書のなかで道徳的規範的な匂いをまとって取り上げられているように感じていたのだ。
あれ、と思ったのは「手巾」だった。
作品のなかで、長谷川先生は教え子の母の訪問を受ける。息子が病死したとお世話になったお礼を言うその母は美しく微笑んでいる。たまたま何か落としたものを拾おうとした先生は、テーブルの下で膝の上のハンケチを引き裂かんばかりに握りしめて震えている母親の指先をみる。女性は顔でほほ笑みながら全身で泣いていたことを知るのだ。
そして、その晩先生はストリントベルグの演劇論の一節を目にする。
「顔は微笑してゐながら、手は手巾を二つに裂くと云ふ、二重の演技であつた、それを我等は今、臭味(メツツヘン)と名づける。・・・」
そして最後のパラグラフはこう結ばれる。
先生は、本を膝の上に置いた。開いたまま置いたので、西山篤子と云ふ名刺が、まだ頁のまん中にのつてゐる。が、先生の心にあるものは、もうあの婦人ではない。さうかと云つて、奥さんでもなければ日本の文明でもない。それらの平穏な調和を破らうとする、得体の知れない何物かである。ストリントベルクの指弾した演出法と、実践道徳上の問題とは、勿論ちがふ。が、今、読んだ所からうけとつた暗示の中には、先生の、湯上りののんびりした心もちを、擾さうとする何物かがある。武士道と、さうしてその型マニイルと――
先生は、不快さうに二三度頭を振つて、それから又上眼を使ひながら、ぢつと、秋草を描いた岐阜提灯の明い灯を眺め始めた。……
平穏な暮らしの調和を乱そうとするもの、西山夫人の見せた子を亡くした悲しみという自然の感情の発露を極限まで抑えつけて微笑みを演じるという「マニイル」の不愉快さに言及する。

この「手巾」も「桃太郎」も、最後の最後に物語の要諦がさらりと示されるのだ。注意深く読まなければ読み落としてしまうほどのさりげなさで。時代の不安、時代の不快が刻まれた、この研ぎ澄まされた表現を読み落としてはならない。

去年読んだ「お富の貞操」も面白かった。もちろん人気作品「蜜柑」や「藪の中」「河童」もよかった。



[PR]
by e3eiei | 2015-04-23 01:20 | 見聞 | Trackback | Comments(0)

カウリスマキの作品をみる

昨年まったくの衝動買いで「キートス!! カウリスマキ」のボックスを買ってしまった。

それで、年末年始にかけてひとりで「キートス!カウリスマキ」を開催した。

「カラマリ・ユニオン」1985年。監督・脚本:アキ・カウリスマキ。15人のフランクが「エイラ」を目指し次々と死んでいく。出演:マッティ・ペロンパー 、サカリ・クオスマネンほか。霊柩車のドライバーとしてカウリスマキ(若くてスリムでいけめん!)も出演している。途中で寝てしまった。
これがレニングラードカウボーイズの系統になるんだなあ。
カウリスマキの映画は船出のシーンで終わる印象があるが、ごく初期の「カラマリ・ユニオン」でも「エイラ」に夢破れた二人のフランクがエストニア目指して小舟をこぎ出していくシーンで終わっていた。そしてこれらの船出はなぜか前途洋々たるものを感じさせないのだ。むしろもの悲しい。きっと彼の地でもまた、やるせないせつない辛苦の営みに温かみを求める日々が待ち受けているだろうなあと予感させるものがある。

「パラダイスの夕暮れ」1986年、監督・脚本:アキ・カウリスマキ、製作:ミカ・カウリスマキ。労働者三部作一作目。マッティ・ペロンパー(ニカンデル)、カティ・オウティネン(イロナ)、サカリ・クオスマネン(同僚で友人)。労働者三部作一作目
ゴミ清掃職員のニカンデルとスーパーのレジを解雇となったイロナの恋物語。二人を乗せて港を出ていく船にはソ連のマークがあった。
切ない恋の物語であるとともにペロンパーとクオスマネンのごくさりげない友情の物語とも見える。
これがカウリスマキ作品群のある意味出発点となるといえよう。マッティ・ペロンパーとカティ・オウティネンの共演で初々しい切ない恋を抑制的に描いていて美しい。ペロンパーとオウティネンはカップル役として何度も共演しているのかと思ったらこれと「愛しのタチアナ」の2作だけなのだ。ペロンパーの早すぎる死が残念だった。

「真夜中の虹」1988年、監督・脚本:アキ・カウリスマキ。労働者三部作二作目(負け犬三部作第1作)。出演:トゥロ・パヤラ(カスリネン)、スサンナ・ハーヴィスト(イルメリ)、マッティ・ペロンパー(ミッコネン)。
鉱山廃坑に伴って失業したカスリネンと、食肉工場で働くシングルマザーのイルメリ、脱獄をともにするミッコネン。最後に暗い埠頭からメキシコに向けて船は出てゆく、「オーバー・ザ・レインボウ」に乗せて。

「レニングラード・カウボーイズ・ゴー・アメリカ」1989年。監督:アキ・カウリスマキ。出演:マッティ・ペロンパー、ザ・レニングラード・カウボーイズ 。ハチャメチャにはじけようとするのに毛皮のコートと頭が重くてどうにもなりません、みたいなおかしい映画だった。

「マッチ工場の少女」1990年。監督・脚本:アキ・カウリスマキ。労働者三部作三作目(負け犬三部作第2作)。出演:カティ・オウティネン(イリス)、エリナ・サロ(母)。
マッチ工場で働き母と義父の世話をする孤独なイリスは、ダンスホールで出会った男、義父から踏みにじられ殺鼠剤を盛る。とても救いのないストーリーだった。カティ・オウティネンは若い時から老成した顔立ちだが、それでも瑞々しい表情がかわいらしかった。天安門事件を報じるニュース映像が興味深かった。

「コントラクト・キラー」1990年。監督・脚本・製作:アキ・カウリスマキ。負け犬三部作第3作。出演:ジャン=ピエール・レオ(フランス人アンリ)、マージ・クラーク(花売りマーガレット)。舞台はロンドンでセリフも英語であるせいか、ちょっと雰囲気が変わっている。

「ラヴィ・ド・ボエーム」1992年。監督・脚本・製作:アキ・カウリスマキ。出演:マッティ・ペロンパー (画家ロドルフォ)、アンドレ・ウィルム(作家マルセル)、カリ・ヴァーナネン(作曲家ショナール)、イヴリヌ・ディディ(ミミ)。
三人の男たちのボヘミアン生活とロドルフォの恋人ミミの暮らしを白黒映像で描く。経済学者の父ヨルマ・カウリスマキに捧げられた。舞台はパリ ※かわいい三輪自動車はリライアント・ロビン。

「愛しのタチアナ」1994年。監督・脚本:アキ・カウリスマキ。出演:マッティ・ペロンパー(整備工レイノ)、カティ・オウティネン(エストニア人タチアナ)、マト・ヴァルトネン(仕立て屋ヴァルト)、キルシ・テュッキライネン(ロシア人クラウディア)。マッティ・ペロンパー遺作となる。

「浮き雲」1996年、監督・製作・脚本:アキ・カウリスマキ。敗者三部作第一作。出演:カティ・オウティネン、カリ・ヴァーナネン。マッティ・ペロンパー(1995年死亡)に捧げられた。
次から次に災厄に見舞われながら決してくじけない。最後の最後がハッピー・エンドとなる。

「白い花びら JUHA」1998年。監督・脚本・製作:アキ・カウリスマキ。原作:ユハニ・アホ。出演:サカリ・クオスマネン(ユハ)、カティ・オウティネン(マルヤ)、アンドレ・ウィルム(シュメイッカ)、エリナ・サロ(シュメイッカの姉)。白黒・無声映画。
これもまたせつない愛の話だ。ペロンパーとは全然違うがクオスマネンもカウリスマキの映画には欠かせないキャラクターだ。

「街のあかり」2007年。監督・脚本・製作:アキ・カウリスマキ。出演:ヤンネ・フーティアイネン(警備員コイスティネン)、マリア・ヘイスカネン(ソーセージショップのアイラ)、マリア・ヤンヴェンヘルミ(悪党の女性ミルヤ)、イルッカ・コイヴラ(悪党)。
そしてこれもまたせつない愛の話だ。オウティネンはスーパーでレジを打っている。

こうしてみているとカウリスマキの作品はどれも気持ちの奥底からふるえるように切ないひたすらな愛の物語だ。役者たちは言葉少なに、表情もあまり変えずに淡々と演じきる。それを描く監督の懐深い愛情が観る者の心を暖かくすると思う。
Youtubeでオウティネンの短いインタビューをみると、カウリスマキの作品のセリフは「昔のフィンランド語で現代のフィンランド語とは違う厳格なリズムを持っている。今の若い人たちは使わないような言葉です。そういう古いセリフの言葉づかいは練習します」と言っている。
カウリスマキは小津に影響を受けたと読んだことがある。小津の作品も人形浄瑠璃のように役者が演じる型を積み重ねていくような印象があるが、カウリスマキはさらに言葉少なに記号的な型を組み立てているように見える。
古い厳格なリズムを持つフィンランド語とはどういうものなんだろう。

小津の映画でも原節子は今の若い人たちは決して話すことのないような古い女言葉を話す。1950年代の若い女性はこういう話し方をしていたのだろうか。
「お母様、わたくしを買いかぶってらしたんですわ。」
「いいえ、わたくしそんな、おっしゃるほどのいい人間じゃありません。」
「わたくしずるいんです。ずるいんです。そういうこと、お母様には申し上げられなかったんです。」

オウティネンが表情を殺して話す古いフィンランド語はこんな感じかしら。。。五七調のようなリズムがあったりするのかしら。。
聴き知らぬ言葉なので何とも言えないが、知らないゆえに普通に喋っているように聞こえるのが残念だ。




[PR]
by e3eiei | 2015-01-05 01:17 | 見聞 | Trackback | Comments(0)

2014年に見て記憶に残っている映画 備忘

  • 「愛を読むひと」(2008)監督:スティーヴン・ダルドリー、出演: ケイト・ウィンスレット(ハンナ・シュミット)。原作:ベルンハルト・シュリンク『朗読者』。

  • 「過去のない男」(2002)監督:アキ・カウリスマキ。 出演: イルマ :カティ・オウティネン、男 :マルック・ペルトラ .

  • 「ル・アーブルの靴磨き」(2011)監督:アキ・カウリスマキ .

  • 「マーサの幸せレシピ」(2001)監督・脚本:サンドラ・ネットルベック、 出演: マルティナ・ゲデック(マーサ).

  • 「ずっとあなたを愛してる」(2008) 監督・脚本:フィリップ・クローデル。出演: クリスティン・スコット・トーマス(姉・ジュリエット)、エルザ・ジルベルスタイン(妹・レア) 原題「Il y a longtemps que je t'aime」(英語「A long time ago that I like you」).

  • 「めぐりあう時間たち」(2003) 監督:スティーヴン・ダルドリー、 出演: ニコール・キッドマン、ジュリアン・ムーア、メリル・ストリープ .

  • 「ブリキの太鼓」(1979) 監督・脚本:フォルカー・シュレンドルフ、原作 ギュンター・グラス 。早稲田松竹1/23

  • 「バグダッド・カフェ」(1987=2008) 監督・製作・脚本:パーシー・アドロン。 ニュー・ディレクターズ・カット版(108分) 早稲田松竹1/23。

  • 「バグダッド・カフェ」(1987) 監督・製作・脚本:パーシー・アドロン。YouTube 3/1。95分版。87年版の方が好きだ。新版は画面がクリアーになった分説明的だし、後半が厚くなってわかりやすい友情物語にすり替わっているようだった。旧版のざらつく画面もこの作品のいわく言い難いせつない孤独感を伝えている。

  • 「バベットの晩餐会」(1987デンマーク)監督:ガブリエル・アクセル。

  • 「舟を編む」2013年 監督:石井裕也、原作:三浦しをん。出演: 松田龍平(馬締光也)、宮崎あおい(林香具矢)、オダギリジョー、小林薫、加藤剛、渡辺美佐子。

  • 「ぐるりのこと」2008年、脚本・監督:橋口亮輔。出演: リリー・フランキー、木村多江。

  • 「KAMIKAZE TAXI」1995年、監督:原田眞人、出演:役所広司、高橋和也。

  • 「ONCE ダブリンの街角で」2007年、アイルランド。監督:ジョン・カーニー、出演:グレン・ハンサード、マルケタ・イルグロヴァ。

  • 「この森で、天使はバスを降りた」1996年、アメリカ。監督・脚本:リー・デヴィッド・ズロトフ。出演: アリソン・エリオット(パーシー)、エレン・バースティン(ハナ)、マーシャ・ゲイ・ハーデン(シェルビー)。

  • 「遙かなる山の呼び声」1980年、脚本・監督:山田洋次。出演: 高倉健、倍賞千恵子、武田鉄矢、吉岡秀隆、ハナ肇。

  • 「浮き雲」1996年、監督・製作・脚本:アキ・カウリスマキ。敗者三部作第一作。出演:カティ・オウティネン、カリ・ヴァーナネン。マッティ・ペロンパー(1995年死亡)に捧げられた。12/21、DVD. どこまでついていないのかと沈み続けるが、最後の最後がハッピー・エンドとなる。

  • 「パラダイスの夕暮れ」1986年、監督・脚本:アキ・カウリスマキ、製作:ミカ・カウリスマキ。労働者三部作一作目。マッティ・ペロンパー(ニカンデル)、カティ・オウティネン(イロナ)。12/22、DVD. ゴミ清掃職員のニカンデルとスーパーのレジを解雇となったイロナの恋物語。

  • 「幸せはシャンソニア劇場から」2008年、監督・脚本:クリストフ・バラティエ。出演:ジェラール・ジュニョ(ピゴワル)、クロヴィス・コルニアック(ミルー)、カド・メラッド(ジャッキー)、ノラ・アルネゼデール(ドゥース)、ピエール・リシャール(ラジオ男)。

  • 「きみに読む物語」2004年、監督:ニック・カサヴェテス。原作:ニコラス・スパークス。出演:ライアン・ゴズリング(ノア)、レイチェル・マクアダムス(アリー)

  • 「グーグーだって猫である」2008年、原作:大島弓子、脚本・監督:犬童一心。出演: 小泉今日子、加瀬亮、上野樹里、吉祥寺。






[PR]
by e3eiei | 2015-01-03 01:06 | 見聞 | Trackback | Comments(0)

「恋におちて (Falling in Love)」 (1984年)を見る。

いつだったか、たまたまテレビをつけたら「恋に落ちて」をやってた。好きな映画の一つだったのだ、わあ!と思って見た。
ちょうどアパートのシーンだった。
そこから最後まで見たが、なんとも暗くて湿っぽい映画だった。もちろん、メリル・ストリープとロバート・デ・ニーロは若々しくて美しく80年代風にゴージャスなんだけど、、

あれえ、こんなあと味の映画だったっけ、と動画サイトを見ると字幕なしでアップされているのでアパートのシーンまでの前半を見る。

驚いたことに、ちょうどテレビで見た場面が作品のターニングポイントになっていた。
アパートに行くまでが偶然に出会った二人が恋に落ちるまでのキラキラした展開だった。デイヴ・グルーシンの「マウンテンダンス」の軽やかな音楽に乗って二人は実にテンポよく恋に落ちていくのだった。恋ってドキドキして惹かれあって会いたくって離れていると切なくてすぐに会いたくなって、っていう恋物語が友だちが鍵を貸してくれたアパートに行くまで。

モリーはデートに出かける前に鏡に映った自分の姿をまじまじと見て「What are you doing?」と二度つぶやく。
結局アパートで、モリーは自分でブラウスのボタンを開けベッドに横たわって抱き合いながら「・・I'm sorry....I'm sorry.」・・・「・・・I can't..」という。「何事もなく」デートは終わる。

後半はモリーとフランクのそれぞれの配偶者との関係が壊れそれを引き受けなければならない、不倫の恋の代償の展開なのだ。もはやマウンテンダンスの出る幕もない。


[PR]
by e3eiei | 2014-11-21 02:31 | 見聞 | Trackback | Comments(0)