大岡昇平『武蔵野夫人』
中央線国分寺駅と小金井駅の中間、線路から平坦な畠中の道を二丁南へ行くと、道は突然下りとなる。「野川」と呼ばれるひとつの小川の流域がそこに開けているが、流れの細いわりに斜面の高いのは、これがかつて古い地質時代に関東山地から流出して、北は入間川、荒川、東は東京湾、南は現在の多摩川で限られた広い武蔵野台地を沈殿させた古代多摩川が、次第に西南に移って行った跡で、斜面はその途中作った最も古い段丘のひとつだからである。 狭い水田を発達させた野川の対岸はまたゆるやかに高まって楯状の台地となり、松や桑や工場を乗せて府中まで来ると、第二の段丘となって現在の多摩川の流域に下りている。 野川はつまり古代多摩川が武蔵野におき忘れた数多い名残川の一つである。段丘は三鷹、深大寺、調布を経て、喜多見の上で多摩の流域に出、それから下は直接神奈川の多摩丘陵と対しつつ蜿蜒六郷に至っている。 樹の多いこの斜面でも一際高く聳える欅や樫の大木は古代武蔵野原生林の名残であるが、「はけ」の長作の家もそういう欅の一本を持っていて、遠くからでもすぐわかる。斜面の裾を縫う道からその欅の横を石段で上る小さな高みが、一帯より少し出張っているところから、「はけ」は「鼻」の訛りだとか、「端」の意味だとかいう人もあるが、どうやら「はけ」はすなわち「峡〔はけ〕」にほかならず、長作の家よりはむしろ、そのにしから道に流れ出る水を遡って斜面深く食い込んだ、一つの窪地を指すものらしい。 水は窪地の奥が次第に高まり、低い崖になって尽きるところから湧いている。武蔵野の表面を蔽う壚ム(注)〔ローム〕つまり赤土の層に接した砂礫層が露出し、きれいな地下水が這い出るように湧き、すぐせせらぎを立てる流れとなって落ちて行く。長作の家では流れが下の道を横切るところに小さな溜りを作り、畠の物を洗ったりなぞする。(第1章 「はけ」の人々 新潮文庫版 9-10) (注)「あげつち」に「母」の字。 ※現D2の裏の崖らしい。 崖際に繁った樹によって遮られた窓外は、線路の向こうを流れる運河化された目黒川の彼方に、ゆるやかに戸越荏原の高台が上って、一面の焼跡になっていた。復員した勉が焼跡を見てまず感じたのは、石と土に還元されたそれら人間の住居地域に露呈した太古の地形であった。東京の山手の焼跡に彼は崖端浸蝕谷の美しさだけを見た。戦場で人間に絶望していた彼は、すべてを自然に換算して感じた。(第9章 別離 新潮文庫版 141) 陣内秀信『東京の空間人類学』(ちくま学芸文庫)を読み返したくなる一節だった。
by e3eiei
| 2006-05-26 15:30
| 見聞
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