野中広務・辛 淑玉『差別と日本人』を読む

野中広務・辛 淑玉, 2009『差別と日本人』角川oneテーマ21(新書)

性別、年代、国籍、思想背景、全く方向性の違う二人の対談である。2編の「まえがき」と2編の「あとがき」を持つほどに「対談」をしながらも二人は異なるものを見てもいた。二人は「差別される側の属性」という一点のみで交わる。これはたいへんおもしろい本だった。とりわけ辛氏の相手の懐に入り込んで話をひきだすインタビューは感動的ですらあった。野中は「あとがき」で述べる。
「気がついたら、誰にも話さなかったようなことをつい口にしてしまっていたりした。「やられた!」という印象だ。とくに対談の最後の部分は、初めて話したことがほとんどだ。これは辛さんが御自分の体験や心情を包み隠さず話してくださったことが大きく影響している」。

強面の策士という印象の野中のもうひとつの側面、差別と闘ってきた姿を前面に出す野中本である。辛による解説も適切で読みやすい。

本書のテーマ「差別」について辛の文章を引用しておく。

決めるのは差別をする側だからだ。そこに合理的な判別基準はない。差別したいとき、人々はその時の差別に都合のよい基準をもっともらしく設けて差別を繰り返す。まず、差別をするという実態が先にあり、それから「部落民」がつくられ、「被差別部落」という空間が形成される。逆ではないのだ。差別する側があいつは「部落民」だと決めればそこから差別が始まる。ようするに関係性の問題なのだ。
自分は他者より優位だという感覚は「享楽」そのものであり、一度その享楽を味わうと、何度でも繰り返したくなる。とくに人は、自分より強い者から存在価値を否定されたり、劣等感を持たされたりしたとき、自己の劣等意識を払拭するために、より差別を受けやすい人々を差別することで傷ついた心のバランスを取ろうとする。(70)

差別は、古い制度が残っているからあるのではない。その時代の、今、そのときに差別する必要があるから、存在するのだ。差別の対象は、歴史性を背負っているから差別されるのではない。
差別とは、富や資源の配分において格差をもうけることがその本質で、その格差を合理化する(自分がおいしい思いをする)ための理由は、実はなんでもいいのだ。部落だから、外国籍だから、朝鮮人だから、沖縄だから、女だから…。自分たちの利権を確保するために資源配分の不平等を合理化さえできれば、その理由などなんでもいい。(168)

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by e3eiei | 2018-03-31 10:25 | 見聞 | Trackback | Comments(0)
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