『1984年』を読む

ジョージ・オーウェル, 1949=高橋和久 新訳, 2009『1984年』ハヤカワepi文庫.

2018年3月の日本でこの小説を初めて/改めて読んだ人は多いだろう。日本社会のマスメディア統制、特定機密保護法による言論の統制など、徐々に進行する全体主義のベールが剥がれ落ちようとしているときに、まさに全体主義権力がつきすすんだ社会を描いたこの小説が読まれることは必然的であると思われるし、意義深い。

小説は大部で全体主義社会を描くテーマは輻輳しているが、わたしは過去の改竄が強く印象に残る。それは歴史の修正にとどまらず個人の心性にまで踏み込む改竄となるように描かれているのだ。

作品はこの時代の3大国のひとつとされるオセアニアに住むウィンストン・スミスという39歳の男性「党員」を主人公として進む。

ウィンストンの住む国家では「ビッグ・ブラザー」と呼ばれる神秘的存在による独裁と信じ込まれており、党政府はイングソックと呼ばれるイデオロギーに基づいて人々を統治する。「真理省」(党の不可謬性・真理性を守るために過去のあらゆる記録を改竄する)、「愛情省」(思想警察による拷問、洗脳、処刑)、「平和省」(戦争遂行)、「潤沢省」(再配分を行い、人々は常に貧困)で行政が行われることになっている。
党のスローガンは「戦争は平和である/自由は屈従である/無知は力である」という二重思考に基づくもの。

「党員」たちは二重思考を植え込まれる。保身や忖度のために白を黒と表明するのではなく、白は白であり同時に黒である、2+2=4であり同時に2+2=5であると信じていること。党員たちはそのような思考に馴致される。また、「ニュースピーク」による言語統制も厳しく、語彙は極力統合されて減らされ、言葉のないところに思考は成立しないことになる。文学、芸術、美・醜、性愛に至る個人のアイデンティティを構成するような感情レベルまで管理が行き届いている。「党員」の各部屋には双方向送受信のテレスクリーンが設置されて私生活も24時間監視される。教育を受けた子どもたちは親を密告する。

ここでは過去は可変的で、ウィンストンの仕事は真理省で過去の記録を改竄することである。データは常に政府の都合に従って書き換えられ、現在の書き換えデータが「真理」であるように過去の数字、写真、報道に至る一切を改竄するのが彼の部署の仕事である。
過去ばかりではなく現実さえも可変的構築物であるように描かれる。「憎悪週間」のフェスティバルのさなかに政府が交戦国はユーラシアではなくイースタシアであると発表するや否や、それは既知の事実となり、街中を埋め尽くしていた「敵はユーラシア」という「間違った」ポスター・横断幕・演説は書き換えられ、過去の書類、新聞、書籍に至るまで大急ぎで作り直される。

二重思考は個人の記憶さえ書き換え、人は過去のことなどどうでもいいと思うようになっている。「党員」たちの感情は毎日の「二分間憎悪」によってファナティックに発散される。毎日その時間に従業員は一室に集められ、テレスクリーンに従って足を踏み鳴らし声の限りに憎悪を叫ぶのだった。さらに街のフェスティバルは「憎悪週間」としてここでも憎悪がかきたてられる。つねに「敵」を作り出しては叩き続けるのだ。人々は自国が長年戦争状態にあり、常にきわどい戦いに勝利し続けていると信じている。だが「戦争」すら作り上げられたもの、真実らしく見せるために随時市中で爆弾を炸裂させ憎悪を掻き立てさせていることが暗示される。

問題はこういう世界でウィンストンが二重思考をとれないことであった。そのため彼は記憶をたどろうとし、不安を覚え、懐かしい気持ちや愛情さえ抱く。3部構成でこのくたびれた中年男の1984年的行く末を描く。
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by e3eiei | 2018-03-23 12:12 | 見聞 | Trackback | Comments(0)
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