こまぐらカフェのキーマカレー

こまぐらカフェ:キーマカレー、小さなサラダとコーヒー。あまりパンチのない普通のカレー。コーヒーも記憶に残ってない。窓から東急のスタバのあたりが見渡せる、ロケーションが素敵だった。お店のスタッフの私語が耳障りで落ち着けなかった。
[PR]
# by e3eiei | 2007-06-03 00:29 | 食べたもの 中央線沿線

羽田のお寿司

羽田空港第2ビル 沼津のおすし屋さん:ランチ寿司。値段からして普通においしいにぎり、味噌のおわんと海鮮サラダ。空港で1000円未満でまずまずのお寿司がいただけて満足した。
[PR]
# by e3eiei | 2007-06-03 00:28 | 食べたもの

ソルトンライスのおむすび

東中野のおむすびテイクアウト。あまり食欲がなかったので梅1個。
[PR]
# by e3eiei | 2007-05-30 00:27 | 食べたもの 中央線沿線 | Trackback

三徳の隣のお弁当

三徳の隣のお弁当:ドライカレーとひじきサラダとかぼちゃサラダとお味噌のおつゆ。途切れ途切れで食べ終えたのは夕方。
[PR]
# by e3eiei | 2007-05-29 00:25 | 食べたもの 早稲田界隈

カッペリーニ

うちでカッペリーニ:サワークリームにイタリアの野菜の塩漬けで塩味。
[PR]
# by e3eiei | 2007-05-27 00:24 | 食べたもの | Trackback | Comments(0)

ソルトンライスのおむすび

東中野のおむすび:梅と焼きたらこテイクアウト。
[PR]
# by e3eiei | 2007-05-23 00:22 | 食べたもの 中央線沿線

ラ・リオンのリエット

月曜日のレストランの豚のリエットがことのほかおいしかった。
しばらく食べたものを記してみる。

新江古田のレストラン: ラ・リオン
豚のリエット、きゅうりのピクルス添え、バゲット、コーヒー。リエットは山盛りのように盛られて、サーブされたときはぎょっとしたが、たいへんおいしかった。自家製のピクルスも甘酸っぱくておいしかった。リエットをお腹いっぱいこんなにいただいたのは初めてだったが、食べ飽きることもなく最後の一切れまでおいしかった。
[PR]
# by e3eiei | 2007-05-22 00:20 | 食べたもの 江古田界隈

佐賀の川、または高齢化する地域

先に、佐賀市内を暮らす人々に寄り添うように流れる川が懐かしい、と書いた。
だが、総延長2000キロの水路を管理することはただごとではない。

川の清掃は地域の住民頼みなのだ。調べてみると「佐賀市の河川をきれいにする条例」および「佐賀市の河川をきれいにする条例施行規則」が平成9年に制定され、河川の清掃協力は住民の義務と化しているのだった。

佐賀市のページでは上水道の発達とともに川が生活から離れていき汚れてきた、と書かれているが、掲載された写真を見るまでもなく、市内の川の汚染は下水道事業の立ち遅れがもたらしたものだろう。いまや市内のどの水路も各家庭、事業所から下水を川に排出するための下水管がにょきにょき突き出ている。

春秋の年に2回「川を愛する週間」に地域住民は「自治会」ごとに川の清掃をする。この下水管の突き出た水路に入り、どぶを浚えるのだ。おぞましい話ではあるが、それでも、体力のある若い世代の共同体であればそれなりの連帯感も生まれ、達成感もあるだろう。

だが地域は高齢化している。川掃除を地域でになう主体は自治会だが、若い世代は自治会に加入していない場合が少なくない。体も動かず、病院通いをしながらの自治会員に川掃除は無理な話だ。無理な話だが、自治会という地元の相互扶助管理組織の中では「わがまま」を言いづらい。川を愛するどころか苦役にもなっている。体が利かないだけではなく地元で生きるための共同体を壊したくないという二重のくびきになっているように見える。

市内に美しい流れを取り戻すのは、観光という側面からも強く推進されていいことだと思う。水のあるたたずまいは人をほっとさせるのだから。無遠慮に突き出た下水道パイプを撤去し、清流が戻るまで、川の清掃は市が責任を持って推進する事業ではないかしら。
[PR]
# by e3eiei | 2007-03-21 22:07 | 見聞 | Trackback | Comments(0)

ルドヴィークとルツィエ

ミラン・クンデラ,1965=1992,『冗談』みすず書房.

ぼだい樹の幹にもたれて今度は私なしで演奏している楽団を眺めていると、長い間味わわなかった連帯感が湧いてきて、辛かった一日の終わりに、私に救いをもたらしてくれた彼に感謝するのだった。するとそのとき、またもルツィエの姿が眼の前に浮かんできたが、今になってはじめて、なぜルツィエが理髪店で私の前に現れ、次の日も、伝説であり真実でもあるコストカの話の中に現れたのかがわかるような気がした。きっと彼女はこう私に言いたかったのだろう。つまり彼女の運命(強姦された少女の運命)が私の運命に似通っており、私たち二人はすれ違いばかり重ねて、互いに理解し合わなかったが、私たちの人生での出来事は双児のように似通っており関連しあっている。なぜならどちらもすさんだ事件なのだから。ルツィエが、肉体的愛をすさんだものとされ、人生での一番大事なものを奪われてしまったように、私の人生も、私が頼ろうとし、本来純粋であり、無実であった大切なものを奪われてしまった。そう、無実だったのだ。(略)私もルツィエも荒廃した事物を哀れむ術を知らなかったから、荒廃した事物や自分たち自身を傷つけながら、それから目をそらしていたのだ、と。ルツィエよ、かくも愛され、かくも惨めな愛され方をしたお前は、何年もたった今、このことを私に言いにきたのか?お前は荒れ果てた世界を代弁するためにやってきたのか?(361-2)
[PR]
# by e3eiei | 2007-03-20 21:23 | 見聞 | Trackback | Comments(0)

「感情」という価値

ミラン・クンデラ『不滅』集英社文庫 328

 ホモ・センチメンタリスは、様々な感情を感じる人格としてではなく(なぜならば、われわれは誰しもさまざまな感情を感じる能力があるのだから)、それを価値に仕立てた人格として定義されなければならない。感情が価値とみなされるようになると、誰もがみなそれを強く感じたいと思うことになる。そしてわれわれは誰しも自分の価値を誇らしく思うものであるからして、感情をひけらかそうとする誘惑は大きいのである。
 感情を価値に仕立てるこの変換は、ヨーロッパにおいて12世紀ごろ生じた。ある一人の貴婦人への、あるひとりの近づきがたい最愛の女性への果てしもない情熱を歌っているとき、トゥルバトゥールたちはまことに感嘆を誘い、まことに美しく見えたので、誰もが彼らを模範として、なにかしら抑えきれぬ心の動きの虜であることを自慢してみたい気持ちになった。
(注)トゥルバドゥール 12-14世紀に、主として南フランスで活躍した吟遊詩人。宮廷風恋愛詩を作詞作曲し、竪琴をひいて自ら吟唱した。
[PR]
# by e3eiei | 2007-01-08 16:53 | 見聞 | Trackback | Comments(0)