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お正月休みにむけてミステリが続々(備忘)

アマゾンがインドリダソンの新作を勧めてきた。

●『声』アーナルデュル・インドリダソン 、訳・ 柳沢 由実子
捜査官エーレンデュルとその仲間による、例によっておそらくは冷たく暗く哀しい背景をもつミステリと思われる。
それでうっかりいろいろ見ていると、しばらく出てこなかった新作をあれこれと見つけてしまった。

●『ミレニアム 4 蜘蛛の巣を払う女(上・下)』ダヴィド ラーゲルクランツ 、訳・ヘレンハルメ 美穂 ・羽根 由
これはスティーグ・ラーソンが遺していた遺稿ではなく、新たにラーゲルクランツという人が書き起こしたものらしい。
経緯はこの記事(杉江松恋)にくわしい。記事によると各国の評価もまずまずということになっている。何かハリウッド的に変貌しているのではないことを祈りたい。
ラーソンが亡くなった際にパートナーのエヴァ・ガブリエルソンがその遺稿を手にし、親族との間で相続をめぐるあれこれがあるということを読んだ気もするが、結局そのままになっているのだろうか。もったいないことだ。
12/22になってアマゾンのコメントにはハリウッド的に変貌してしまってつまらない、という評価と、ますます面白くなったという評価が併記された。まあ、そういうことだろう。私はリスベットをつうじて、虐げられた者、とりわけ女性に対する作者のあたたかいまなざしと暴力への糾弾がこの作品群の独自性の一つだと評価しているが、ラーゲルクランツもその点は踏襲しているようだ。

●『特捜部Q―吊された少女― 』ユッシ エーズラ・オールスン、訳・吉田 奈保子
Qの面々の繰り広げるあれこれは面白いが、事件の描写が気持ち悪くて『64』で読むのをやめてしまった。これもたぶん買わないだろう。

●『霜の降りる前に上・下』ヘニング・マンケル、訳・柳沢 由実子
これは来月発売。いよいよ娘が警察官になるらしい。が、マンケルもなんというかハリウッド化を想定したような舞台設定と筋の運びが鼻について、一旦は読むのをやめてしまっていた。

そうだそうだ、そして、今年の4月に満を持してリーバス(元)警部が還ってきた。ほんとうに待ってたのよ~~。『他人の墓の中に立ち』(訳・延原 泰子)。ランキンのもう一つのシリーズ、警部補マルコム・フォックスとクロスするという筋立てだったが、リーバスの持ち味が失われてしまったような作品だった。一匹狼的な捜査とはいえ、そこは組織の人間としての葛藤もあり、シボーンとの同僚としての絡みもあって面白かったんだけど、あまりにも一人の世界だけが展開されていて、謎解きも独りよがりでつまらなかった、記憶がある。・・・

ミステリーとしてはそのほかに単発的にP.ルメートル『その女アレックス』、アン・クリーヴスの四季シリーズなどを読んだが、魅せられるものはなかったんだろう、記憶に残っていない。



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by e3eiei | 2015-12-23 17:13 | 見聞 | Trackback | Comments(0)

2015年前半に観た映画

2015年前半は、14年の暮れにカウリスマキボックスを買ったので、ひとりでキートス!カウリスマキの続きを仕上げた。
そのあとは主に成瀬巳喜男と高峰秀子の映画を見た。東宝から成瀬巳喜男DVD10枚シリーズを出したのでそれを買った。
その合間に見た映画では、マイク・リー監督がよかった。

  • 「真夜中の虹」1988年、監督・脚本:アキ・カウリスマキ。労働者三部作二作目(負け犬三部作第1作)。出演:トゥロ・パヤラ(カスリネン)、スサンナ・ハーヴィスト(イルメリ)、マッティ・ペロンパー(ミッコネン)。鉱山廃坑に伴って失業したカスリネンと、食肉工場で働くシングルマザーのイルメリ、脱獄をともにするミッコネン。最後に暗い埠頭からメキシコに向けて船は出てゆく、「オーバー・ザ・レインボウ」に乗せて。

  • 「マッチ工場の少女」1990年。監督・脚本:アキ・カウリスマキ。労働者三部作三作目(負け犬三部作第2作)。出演:カティ・オウティネン(イリス)、エリナ・サロ(母)。マッチ工場で働き母と義父の世話をする孤独なイリスは、ダンスホールで出会った男、義父から踏みにじられ殺鼠剤を盛る。とても救いのないストーリーだった。カティ・オウティネンは若い時から老成した顔立ちだが、それでも瑞々しい表情がかわいらしかった。天安門事件を報じるニュース映像が興味深かった。

  • 「コントラクト・キラー」1990年。監督・脚本・製作:アキ・カウリスマキ。負け犬三部作第3作。出演:ジャン=ピエール・レオ(フランス人アンリ)、マージ・クラーク(花売りマーガレット)。舞台はロンドン。

  • 「ラヴィ・ド・ボエーム」1992年。監督・脚本・製作:アキ・カウリスマキ。出演:マッティ・ペロンパー (画家ロドルフォ)、アンドレ・ウィルム(作家マルセル)、カリ・ヴァーナネン(作曲家ショナール)、イヴリヌ・ディディ(ミミ)。三人の男たちのボヘミアン生活とロドルフォの恋人ミミの暮らしを白黒映像で描く。経済学者の父ヨルマ・カウリスマキに捧げられた。舞台はパリ。 ※かわいい三輪自動車はリライアント・ロビン。

  • 「レニングラード・カウボーイズ・ゴー・アメリカ」1989年。監督:アキ・カウリスマキ。出演:マッティ・ペロンパー、ザ・レニングラード・カウボーイズ 。

  • 「愛しのタチアナ」1994年。監督・脚本:アキ・カウリスマキ。出演:マッティ・ペロンパー(整備工レイノ)、カティ・オウティネン(エストニア人タチアナ)、マト・ヴァルトネン(仕立て屋ヴァルト)、キルシ・テュッキライネン(ロシア人クラウディア)。マッティ・ペロンパー遺作となる。

  • 「白い花びら JUHA」1998年。監督・脚本・製作:アキ・カウリスマキ。原作:ユハニ・アホ。出演:サカリ・クオスマネン(ユハ)、カティ・オウティネン(マルヤ)、アンドレ・ウィルム(シュメイッカ)、エリナ・サロ(シュメイッカの姉)。白黒・無声映画。

  • 「街のあかり」2007年。監督・脚本・製作:アキ・カウリスマキ。出演:ヤンネ・フーティアイネン(警備員コイスティネン)、マリア・ヘイスカネン(ソーセージショップのアイラ)、マリア・ヤンヴェンヘルミ(悪党の女性ミルヤ)、イルッカ・コイヴラ(悪党)。

  • 「カラマリ・ユニオン」1985年。監督・脚本:アキ・カウリスマキ。15人のフランクが「エイラ」を目指し次々と死んでいく。出演:マッティ・ペロンパー 、サカリ・クオスマネンほか。霊柩車のドライバーとしてカウリスマキも出演している。 途中で寝てしまった。

  • 「セントラルステーション」1998年、ブラジル。監督:ヴァルテル・サレス。出演:フェルナンダ・モンテネグロ(代筆業ドーラ)、ヴィニシウス・ジ・オリヴェイラ(少年ジョズエ)。フェルナンダ・モンテネグロという女優さんはWikipediaによると1929年生まれとなっているので、この映画のときには69歳!!すごいバイタリティーだ。

  • 「人生は、時々晴れ(原題: All or Nothing)」2002年、イギリス。監督・脚本:マイク・リー。出演:ティモシー・スポール(フィル)、レスリー・マンヴィル(妻ペニー)、アリソン・ガーランド(娘レイチェル)、ジェームズ・コーデン(息子ローリー)、ルース・シーン(友人ドナ)。ロンドン団地住まいの労働者階級の煮詰った日常。

  • 「スウィート ヒアアフター」1997年、カナダ。監督・脚本:アトム・エゴヤン。原作:ラッセル・バンクス『この世を離れて』。出演:イアン・ホルム(弁護士ミッチェル)、サラ・ポーリー(ニコール)、トム・マッカムス(ニコールの父親サム)、ガブリエレ・ローズ(バスの運転手ドロレス)。 小さな雪の町で起きたスクールバスの転落事故、訴訟を勧める弁護士ミッチェルとそれに乗る住民、阻止する住民、はーめるんの笛吹き男の寓話にそって進行する。通奏低音としてのインセスト・タブー。飛行機で乗り合わせたアリソンは、別れ際に「アリー」と呼びかけるミッチェルになぜ「アリソンと」と敢えて訂正したのだろう。弁護士とゾーイのエピソードの意味がうまくつかめなかった。

  • 「ソフィーの選択」1982年、アメリカ。脚本・監督:アラン・J・パクラ。原作:ウィリアム・スタイロン。出演:メリル・ストリープ(ソフィー)、ケヴィン・クライン(ネイサン)、ピーター・マクニコル(スティンゴ)。封切り当時見て以来で、「現在」のストーリーは記憶からはまったく欠け落ちていた。

  • 「我が家は楽し」 1951年、監督:仲村登。原作 : 田中澄江。出演:笠智衆・山田五十鈴、高峰秀子、岸恵子、佐田啓二。 ずいぶん前に一度テレビで見てしみじみした印象が残っていた。今回見直してみると、こんなものだったかなあとちょっと肩透かしだった。

  • 「秀子の車掌さん」1941年、監督:成瀬巳喜男、原作:井伏鱒二『おこまさん』。出演:高峰秀子、藤原鶏太、夏川大二郎。 最後のシーンが不可解な第一印象を得た。新たな一歩を意気揚々と踏み出したハッピーエンドのはずが、高みに上ったまま梯子をはずされたような肩透かしを食わされるのだ。なんだろうと考えると、1941年の開戦前夜の閉塞感をあらわしているのかなどと考える。一見アイドル映画のようだが、それにとどまらないものを考えさせられる。高峰秀子17歳という演技力も驚きだ。若々しくてかわいい。

  • 「めし」1951年、監督:成瀬巳喜男、原作:林扶美子。出演:原節子、上原謙。

  • 「稲妻」1952年、監督:成瀬巳喜男、原作:林扶美子。出演:高峰秀子(小森清子)、浦辺粂子(母、おせい)、三浦光子(次姉、光子)、村田知英子(長姉、お縫)。 異父きょうだいの末っ子清子が、下町の教養のない何かといがみ合っているプライバシーもない家に嫌気がさし、山の手の本箱に本が詰まっている暮らしにあこがれて家を出る。母娘の絆のディレンマ。

  • 「なつかしの顔」1941年、監督:成瀬巳喜男、出演:馬野都留子(母)、花井蘭子(長男の嫁)、小高たかし(小学生の二男)。 徴兵された長男がニュース映画に出るというので町まで見に行く母と妻。母はみる前から涙が出て手拭いを探す間に息子をみそこなう。妻は映画館に入ることができずにみそこなう。徴兵された大切な人の戦場でのひとこまを観ることができないという仕立てで残された女性たちのつらさを描いているように思われる。

  • 「銀座化粧」1951年、監督:成瀬巳喜男、出演:田中絹代(雪子)、花井蘭子(静江)、香川京子(京子)、三島雅夫(藤村)。 銀座のクラブを任されている田中絹代は元「旦那」との間に子供がいる。日々を精いっぱい生きる銀座のママたち。

  • 「煙突の見える場所」1953年、監督:五所平之助、原作:椎名麟三。出演:田中絹代(弘子)、上原謙(緒方­隆吉)、芥川比呂志(久保健三)、高峰秀子(東仙子)。下町のお化け煙突の見える足立区千住のしもた屋。1階の弘子夫婦と2階に間借りする男女。弘子の元夫が赤ん坊を置き去りにしたことでそれぞれの人間性がみえてくる、コメディ仕立て。

  • 「浮雲」1955年、監督:成瀬巳喜男(原作:林芙美子)、出演:高峰秀子(ゆき子)、森雅之(富岡)。 昭和21年仏印で不倫関係にあった男女が引き揚げた後の混乱の中で切っても切れない関係が続いていく大メロドラマ。最後は屋久島で高峰秀子が亡くなる。

  • 「長い散歩」2006年、監督:奥田瑛二、脚本:山室有紀子、桃山さくら。出演:緒形拳(安田松太郎)、杉浦花菜(横山幸(サチ))、高岡早紀(横山真由美)、松田翔太(ワタル)。 家族へのパワハラの罪の意識を負う退職校長。アパートの隣室で虐待される幼児を連れ出して長い散歩に出かける。自らの贖罪のために。子供は徐々に心を開くが、校長は誘拐罪で服役する。最後に刑期を終えた校長が出所するシーンで、何一つ変わっていないことが暗示される。それぞれの役者の持ち味が発揮されていたが、そして問題提起にはなっていたが、せつない映画だった。

  • 「そして父になる」2013年。監督・脚本:是枝裕和。福山雅治(野々宮良多)、尾野真千子(みどり(良多の妻))、リリー・フランキー(斎木雄大)、真木よう子(ゆかり)。

  • 「小さいおうち」2014年。監督・脚本:山田洋次。原作 :中島京子。松たか子(平井時子)、倍賞千恵子(タキ - 晩年期)、黒木華(タキ - 青年期)、片岡孝太郎(平井雅樹)、吉岡秀隆(板倉正治)。

  • 「流れる」1956年、監督:成瀬巳喜男、(原作:幸田あや)。出演:山田五十鈴(つた奴)、杉村春子(染香)、高峰秀子(勝代)、お春(田中絹代)。凋落する柳橋の置屋「つた家」に住み込むお手伝いのお春(田中)と芸者になじまない娘勝代(高峰)を配し、時代の流れのなかで取りこぼされながらそれに気づかないつた奴を飲み込む残酷な運命を描く。

  • 「山の音」1954年、監督:成瀬巳喜男(原作:川端康成)。出演:原節子(菊子)、山村聡(尾形信吾)、上原謙(尾形修一)、長岡輝子(尾形保子)。

  • 「女が階段を上る時」1960年、監督:成瀬巳喜男、脚本:菊島隆三、音楽:黛敏郎。出演:高峰秀子(ママ・矢代圭子)、仲代達也(小松)、森雅之(銀行支店長・藤崎)、団令子(純子)、加藤大介(関根)。黛敏郎のジャジーな音楽がいい。

  • 「娘・妻・母」1960年、監督:成瀬巳喜男。出演:三益愛子(母・坂西あき)、原節子(長女・早苗)、森雅之(長男・勇一郎)、高峰秀子(その妻・和子)、宝田明(二男・礼二)、淡路恵子(その妻)、草笛光子(二女・薫)、小泉博(その夫・英隆)、杉村春子(英隆の母)、団令子(三女・春子)、仲代達矢(黒木信吾)、中北千枝子(早苗の友人・戸塚)。お金と母の扶養を巡るエゴイズムのぶつかり合いから崩壊に向かう家族を描く。 60歳還暦を迎える母(三益愛子)のなんとおばあさんおばあさんしていることだろう、半世紀前の年齢感覚に愕然とする。それを考えると長男(森雅之)も40歳そこそこと思うがこれもかなり年をとっているし、35歳設定の原節子も貫禄がある。

  • 「放浪記」1962年、監督:成瀬巳喜男、原作:林芙美子。出演:高峰秀子(林芙美子)、田中絹代(母)、加藤大介(安岡信雄)、仲谷昇(伊達)、宝田明(福池貢)、草笛光子(日夏京子)。 高峰秀子の役作りがすごい。

  • 「乱れる」1964年、監督:成瀬巳喜男。出演:高峰秀子(森田礼子)、加山雄三(二男・森田幸司)、三益愛子(母・しず)。酒屋を営む兄嫁と弟の破滅に向かう恋。最後は銀山温泉で加山雄三ががけから転落して亡くなる。 銀山温泉ののみ屋のおかみさん(浦辺粂子)が60年生きてきたというが、そのおばあさんぶりが凄まじい。

  • 「乱れ雲」1967年、監督:成瀬巳喜男、音楽:武満徹。出演:司葉子(江田由美子)、加山雄三(三島史郎)、草笛光子(文子・由美子の姉)、森光子(四戸勝子・由美子の義姉)。交通事故で夫を失った司葉子と、夫を轢いた加山雄三の結ばれることのない愛。武満徹の音楽が情感豊かでとてもいい。カラーの映像もとても美しい。

  • 「おかあさん」1952年、監督:成瀬巳喜男。出演:田中絹代(おかあさん・福原正子)、香川京子(長女・年子)、三島雅夫(夫・福原良作)、中北千枝子(正子の妹・則子)、加東大介(木村)。Youtubeで視聴したが、途中で切れていた。残念。

  • 「あにいもうと」1953年、監督:成瀬巳喜男、原作:室生犀星。出演:京マチ子(もん)、久我美子(さん)、森雅之(伊之吉)、浦辺粂子(母・りき)、山本礼三郎(父・赤座)、船越英二(小畑)。 互いを思いやる兄と妹の、不器用なために暴力も加わる激しい応酬となる家族の関係。兄が森雅之だとは最後まで気がつかなかった。

  • 「本日休診」1952年、監督:渋谷実、原作:井伏鱒二。出演:柳永二郎(三雲八春)、田村秋子(湯川三千代)、佐田啓二(湯川春三)、湯川春三(加吉)、淡島千景(お町)、三國連太郎(勇作)。

  • 「善き人のためのソナタ Das Leben der Anderen」2007年、ドイツ。監督:フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク、音楽:ガブリエル・ヤレド。出演:ウルリッヒ・ミューエ(ゲルト・ヴィースラー大尉・HGW)、マルティナ・ゲデック(クリスタ=マリア・ジーラント)、セバスチャン・コッホ(ゲオルク・ドライマン)。1984年東ベルリン、劇作家ドライマンに対するシュタージの盗聴の任に当たるヴィースラーは、監視を通じて人間性に目覚める。

  • 「洲崎パラダイス 赤信号」1956年、監督:川島雄三、原作:芝木好子。出演:新珠三千代(蔦枝)、三橋達也(義治)、轟夕起子(お徳:千草のおかみさん)。

  • 「故郷」1972年、監督:山田洋次。出演:倍賞千恵子(石崎民子)、井川比佐志(精一)、笠智衆(仙造)。瀬戸内海の石運搬船を営む夫婦が、高度経済成長の波に乗り切れずに故郷の島を離れ尾道に出て行く。 


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by e3eiei | 2015-09-02 00:33 | 見聞 | Trackback | Comments(0)

『忘れられた巨人』(カズオ・イシグロ)を読む。

カズオ・イシグロ(2015)土屋政雄訳『忘れられた巨人』早川書房.

アーサー王のころを舞台に老夫婦を主人公としたファンタジー物語風の作品だった。読み始めは、人の記憶と捕まえようとするとすっと遠のく認識像を描き、『充たされざる者』のような意識世界を描くのかと楽しみにしてみた。読み終えるとそういうわけではなく、むしろ現代社会に対するメッセージを直接に強く感じるような寓意性の強い作品であった。
クエリグという雌龍の吐く息による霧がかかり人々全体が忘却のなかにいる。何か大切なことがあったような気がしていても、眼前のことに気持ちを奪われたりするのだった。
このクエリグを殺して記憶を取り戻すこと(の是非)が物語の底流となる。人が皆忘れてしまっているということの意味、それを思い出し記憶にとどめるというのはどういう意味を持ち始めるのかということを作品は問う。

忘却と記憶のテーマは「夫婦の愛情」、そして「戦闘と平和」という二つの主題にそって進行する。
「ほら、アクセル、この手をとって、勇気が萎えそうなわたしを支えて。だってね、霧が晴れるのを恐れているのは、あなたより、むしろわたしだと思う。さっきあの石のわきに立っていたときにね、不意に、昔あなたにひどいことをしたような気がしてきました。その記憶がすっかり戻ってくるとしたら…手が震えているのがわかる? あなたはどう言うかしら。わたしをこの吹きさらしの山に捨てて、去ってしまわないかしら。だから、あの勇敢な戦士を前に見ながら、あの方に倒れてほしいと願う気持ちさえあるの。でも、やはり隠れることはしたくない。それはいや。あなたも同じじゃない、アクセル? 二人で一緒に歩いてきた道ですもの、明るい道でも暗い道でもあるがままに振り返りましょう。(p.364)
「わたしは息子の墓に行くことを妻に禁じたんです、船頭さん。残酷なことでした。息子の眠る墓に妻は一緒に行きたがった。わたしははねつけた。・・・/「息子さんの墓参りを奥さんだけでなくご自身にも禁じるとは、それで何をしたかったのですか。/「したかった? したかったことなどありません、船頭さん。ただ愚かだっただけです。それと自尊心。そして人間の心の奥底に潜む何か。もしかしたら罰したいという欲望だったかもしれません。わたしは許しを説き、実践していました。しかし、復讐を望む小さな部屋を心の中につくっていて、そこに、長年、鍵をかけてきました。つまらないことで妻にひどいことをしました、息子にもです。(p.404-5)
「教えておくれ、お姫様」爺さんが言っている。「おまえは霧が晴れるのを喜んでいるかい」/「この国に恐怖をもたらすかもしれないけど、わたしたち二人にはちょうど間に合ったって感じね」/「わたしはな、お姫様、こんなふうに思う。霧にいろいろと奪われなかったら、わたしたちの愛はこの年月をかけてこれほど強くなれていただろうか。霧のおかげで傷が癒えたのかもしれない」(p.410)
忘却の霧が晴れることで見えてくる記憶は、あまりにも禍々しいものだった。記憶を取り戻すことで禍々しい過去の自分と再び直面せざるを得なくなる。傷を負った二人の過去と向き合わないわけにはいかなくなる。忘却によって愛は強くなっていったのか。
そして、もう一つのテーマは憎悪と戦闘と平和。
「・・・あれから長い年月を経たとはいえ、この息が止まったとき、いまでも国中で何か起こりうるか考えてみよ。われわれは多くを殺した。認める、強き者弱き者の区別なく殺した。あのときのわれらには神も決してほほえまなかったであろう。だが、この国から戦が一掃されたのも事実だ。この国を去りなされ。お願いする。貴殿とは祈る神が違えど、貴殿の神もこの龍には祝福を賜るのではないか」/ ウィスタンは穴に背を向け、老騎士を見た。/「悪事を忘れさせ、行った者に罰も与えぬとは、どんな神でしょうか、騎士殿」(p.369)
「何のことでしょう、戦士様」とベアトリスが尋ねた。「これから何かあると言うのですか」/「正義と復讐です、奥さん。これまで遅れていた正義と復讐が、今や大急ぎでこちらへやってきます。もうすぐです。わたしの心が今乙女のように震えているのは、わたしがあなた方の間に長くいすぎたからに違いありません」/「最前おっしゃった言葉が耳に残っています」とアクセルが言った。「平和のうちに進めと言いながら、もはや平和などありえないとも言われました。・・・」/「アクセル殿はわかりはじめておられるようです。わたしの王が雌龍退治を命じられたのは、かつて虐殺された同胞への記念碑を建てるためだけではありません。もうおわかりでしょう。龍退治は、来るべき征服に道を開くためです」(p.382-3)
「ほんとうにな、お姫様。戦士殿の言葉にわたしは震える。お前とわたしは、懐かしい記憶を取り戻したくてクエリグの死を望んだ。だが、これで古い憎しみも国中に広がることになるのかもしれない。二つの民族の間の絆が保たれるよう、神がよい方法を見つけてくださることを祈るしかないが、これまでも習慣と不信がわたしたちを隔ててきた。昔ながらの不平不満と、土地や征服への新しい欲望――これを口達者な男たちが取り混ぜて語るようになったら何が起こるかわからない」/「恐れて当然です、アクセル殿」とウィスタンが言った。「かつて地中に葬られ、忘れられていた巨人が動き出します。遠からず立ち上がるでしょう。その時、二つの民族の間に結ばれた友好の絆など、娘らが小さな花の茎で作る結び目ほどの強さもありません。男たちは夜間に隣人の家を焼き、夜明けに木から子供を吊るすでしょう・・・」(p.384)
ここでも著者は忘れることによって平和が生み出され維持されてきたと語る。記憶を取り戻すことは復讐の戦闘へと向かう契機になる、というよりむしろ積極的に戦闘し征服する理由となる記憶を取り戻そうとするのだ。戦闘をする根拠になるかつて傷つけられた記憶と憎悪、復讐心を掻き立てるために、忘却の霧を吐き続ける龍を殺して記憶を取り戻すのだと。

前作の『わたしを離さないで』もそうだったが、現代社会にある社会問題を一つの物語に封じ込めてメッセージを伝えるという手法のようだ。
前作では先端再生医療に潜在する尊厳の問題を、SFに仮託して描いた。主人公たちが子どもであったために哀しみと懐かしみのあるテイストが基調だった。
本作は中世の物語であり、主人公も高齢、せりふ回しも時代がかっていたためか、少し読みにくさがあった。
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追記(8月29日)
最後のところを考えていた。アクセルはベアトリスとともに息子の眠る島に渡るつもりでいた。しかし、船頭はひとりずつしか船には乗れないという。
夫の姿をもうとらえることもできなくなっていて、船の中で「島」に渡る準備をすませている妻を、夫は抱きしめて別れを告げる。
「じゃ、さようなら、アクセル」
「さようなら、わが最愛のお姫様」
これは島を往復する小舟をほんの束の間待つ人たちの交わす挨拶ではない。二人は口には出さないが最期の挨拶であることを知っていた。
そしてアクセルは船頭を見ようともせず、海に背を向けてどんどん陸の方に歩いていく。




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by e3eiei | 2015-08-28 11:03 | 見聞 | Trackback | Comments(0)

備忘 芥川龍之介「桃太郎」そして「手巾」

ちょうどひと月ほど前、青空文庫をぱらぱら見ていて芥川龍之介の作品をいくつか読んだ。
その中でも「桃太郎」は昭和初期当時の不安だけではなく、その数十年後の世紀末に至るまでをも予言しているようで非常に気持ちが掻き乱された。

ストーリーはお伽噺の「桃太郎」のパロディーとも読める。勇敢に「鬼征伐」に赴いた桃太郎の活躍を、鬼の立場から再構成した物語だ。何の過ちも無礼も働いていない鬼が島の鬼たちは、怠惰で強欲な桃太郎が「鬼が島を征伐したいと志した故」に攻め入られ、残忍に殺され、凌辱され、生け捕られる。
芥川の「桃太郎」で作者の筆が冴えわたり本当に怖いと思うのは、最後の2章、とりわけ2つのパラグラフだ。
桃太郎の凱旋は日本中の子どもたちがよく知っているが、と言っておいて、しかし生き残った鬼はときどきやってきては桃太郎を襲おうとしたので桃太郎は幸福に余生を送ったわけではなかった、と続ける。そして次のように結ぶのだ。
 その間も寂しい鬼が島の磯には、美しい熱帯の月明りを浴びた鬼の若者が五六人、鬼が島の独立を計画するため、椰子の実に爆弾を仕こんでいた。優しい鬼の娘たちに恋をすることさえ忘れたのか、黙々と、しかし嬉しそうに茶碗ほどの目の玉を赫かせながら。・・・
 人間の知らない山の奥に雲霧を破った桃の木は今日もなお昔のように、累々と無数の実をつけている。勿論桃太郎を孕んでいた実だけはとうに谷川を流れ去ってしまった。しかし未来の天才はまだそれらの実の中に何人とも知らず眠っている。あの大きい八咫鴉は今度はいつこの木の梢へもう一度姿を露わすであろう? ああ、未来の天才はまだそれらの実の中に何人とも知らず眠っている。・・・
欲に目のくらんだ男が根拠の薄弱な殺戮の限りを尽くした土地では、テロリストを生み出した。
そして、桃のなかには「未来の天才」がまだ何人とも知らずにぶら下がっているのだ。


芥川の作品を長い間敬遠していた。何となく義務教育の教科書のなかで道徳的規範的な匂いをまとって取り上げられているように感じていたのだ。
あれ、と思ったのは「手巾」だった。
作品のなかで、長谷川先生は教え子の母の訪問を受ける。息子が病死したとお世話になったお礼を言うその母は美しく微笑んでいる。たまたま何か落としたものを拾おうとした先生は、テーブルの下で膝の上のハンケチを引き裂かんばかりに握りしめて震えている母親の指先をみる。女性は顔でほほ笑みながら全身で泣いていたことを知るのだ。
そして、その晩先生はストリントベルグの演劇論の一節を目にする。
「顔は微笑してゐながら、手は手巾を二つに裂くと云ふ、二重の演技であつた、それを我等は今、臭味(メツツヘン)と名づける。・・・」
そして最後のパラグラフはこう結ばれる。
先生は、本を膝の上に置いた。開いたまま置いたので、西山篤子と云ふ名刺が、まだ頁のまん中にのつてゐる。が、先生の心にあるものは、もうあの婦人ではない。さうかと云つて、奥さんでもなければ日本の文明でもない。それらの平穏な調和を破らうとする、得体の知れない何物かである。ストリントベルクの指弾した演出法と、実践道徳上の問題とは、勿論ちがふ。が、今、読んだ所からうけとつた暗示の中には、先生の、湯上りののんびりした心もちを、擾さうとする何物かがある。武士道と、さうしてその型マニイルと――
先生は、不快さうに二三度頭を振つて、それから又上眼を使ひながら、ぢつと、秋草を描いた岐阜提灯の明い灯を眺め始めた。……
平穏な暮らしの調和を乱そうとするもの、西山夫人の見せた子を亡くした悲しみという自然の感情の発露を極限まで抑えつけて微笑みを演じるという「マニイル」の不愉快さに言及する。

この「手巾」も「桃太郎」も、最後の最後に物語の要諦がさらりと示されるのだ。注意深く読まなければ読み落としてしまうほどのさりげなさで。時代の不安、時代の不快が刻まれた、この研ぎ澄まされた表現を読み落としてはならない。

去年読んだ「お富の貞操」も面白かった。もちろん人気作品「蜜柑」や「藪の中」「河童」もよかった。



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by e3eiei | 2015-04-23 01:20 | 見聞 | Trackback | Comments(0)

カウリスマキの作品をみる

昨年まったくの衝動買いで「キートス!! カウリスマキ」のボックスを買ってしまった。

それで、年末年始にかけてひとりで「キートス!カウリスマキ」を開催した。

「カラマリ・ユニオン」1985年。監督・脚本:アキ・カウリスマキ。15人のフランクが「エイラ」を目指し次々と死んでいく。出演:マッティ・ペロンパー 、サカリ・クオスマネンほか。霊柩車のドライバーとしてカウリスマキ(若くてスリムでいけめん!)も出演している。途中で寝てしまった。
これがレニングラードカウボーイズの系統になるんだなあ。
カウリスマキの映画は船出のシーンで終わる印象があるが、ごく初期の「カラマリ・ユニオン」でも「エイラ」に夢破れた二人のフランクがエストニア目指して小舟をこぎ出していくシーンで終わっていた。そしてこれらの船出はなぜか前途洋々たるものを感じさせないのだ。むしろもの悲しい。きっと彼の地でもまた、やるせないせつない辛苦の営みに温かみを求める日々が待ち受けているだろうなあと予感させるものがある。

「パラダイスの夕暮れ」1986年、監督・脚本:アキ・カウリスマキ、製作:ミカ・カウリスマキ。労働者三部作一作目。マッティ・ペロンパー(ニカンデル)、カティ・オウティネン(イロナ)、サカリ・クオスマネン(同僚で友人)。労働者三部作一作目
ゴミ清掃職員のニカンデルとスーパーのレジを解雇となったイロナの恋物語。二人を乗せて港を出ていく船にはソ連のマークがあった。
切ない恋の物語であるとともにペロンパーとクオスマネンのごくさりげない友情の物語とも見える。
これがカウリスマキ作品群のある意味出発点となるといえよう。マッティ・ペロンパーとカティ・オウティネンの共演で初々しい切ない恋を抑制的に描いていて美しい。ペロンパーとオウティネンはカップル役として何度も共演しているのかと思ったらこれと「愛しのタチアナ」の2作だけなのだ。ペロンパーの早すぎる死が残念だった。

「真夜中の虹」1988年、監督・脚本:アキ・カウリスマキ。労働者三部作二作目(負け犬三部作第1作)。出演:トゥロ・パヤラ(カスリネン)、スサンナ・ハーヴィスト(イルメリ)、マッティ・ペロンパー(ミッコネン)。
鉱山廃坑に伴って失業したカスリネンと、食肉工場で働くシングルマザーのイルメリ、脱獄をともにするミッコネン。最後に暗い埠頭からメキシコに向けて船は出てゆく、「オーバー・ザ・レインボウ」に乗せて。

「レニングラード・カウボーイズ・ゴー・アメリカ」1989年。監督:アキ・カウリスマキ。出演:マッティ・ペロンパー、ザ・レニングラード・カウボーイズ 。ハチャメチャにはじけようとするのに毛皮のコートと頭が重くてどうにもなりません、みたいなおかしい映画だった。

「マッチ工場の少女」1990年。監督・脚本:アキ・カウリスマキ。労働者三部作三作目(負け犬三部作第2作)。出演:カティ・オウティネン(イリス)、エリナ・サロ(母)。
マッチ工場で働き母と義父の世話をする孤独なイリスは、ダンスホールで出会った男、義父から踏みにじられ殺鼠剤を盛る。とても救いのないストーリーだった。カティ・オウティネンは若い時から老成した顔立ちだが、それでも瑞々しい表情がかわいらしかった。天安門事件を報じるニュース映像が興味深かった。

「コントラクト・キラー」1990年。監督・脚本・製作:アキ・カウリスマキ。負け犬三部作第3作。出演:ジャン=ピエール・レオ(フランス人アンリ)、マージ・クラーク(花売りマーガレット)。舞台はロンドンでセリフも英語であるせいか、ちょっと雰囲気が変わっている。

「ラヴィ・ド・ボエーム」1992年。監督・脚本・製作:アキ・カウリスマキ。出演:マッティ・ペロンパー (画家ロドルフォ)、アンドレ・ウィルム(作家マルセル)、カリ・ヴァーナネン(作曲家ショナール)、イヴリヌ・ディディ(ミミ)。
三人の男たちのボヘミアン生活とロドルフォの恋人ミミの暮らしを白黒映像で描く。経済学者の父ヨルマ・カウリスマキに捧げられた。舞台はパリ ※かわいい三輪自動車はリライアント・ロビン。

「愛しのタチアナ」1994年。監督・脚本:アキ・カウリスマキ。出演:マッティ・ペロンパー(整備工レイノ)、カティ・オウティネン(エストニア人タチアナ)、マト・ヴァルトネン(仕立て屋ヴァルト)、キルシ・テュッキライネン(ロシア人クラウディア)。マッティ・ペロンパー遺作となる。

「浮き雲」1996年、監督・製作・脚本:アキ・カウリスマキ。敗者三部作第一作。出演:カティ・オウティネン、カリ・ヴァーナネン。マッティ・ペロンパー(1995年死亡)に捧げられた。
次から次に災厄に見舞われながら決してくじけない。最後の最後がハッピー・エンドとなる。

「白い花びら JUHA」1998年。監督・脚本・製作:アキ・カウリスマキ。原作:ユハニ・アホ。出演:サカリ・クオスマネン(ユハ)、カティ・オウティネン(マルヤ)、アンドレ・ウィルム(シュメイッカ)、エリナ・サロ(シュメイッカの姉)。白黒・無声映画。
これもまたせつない愛の話だ。ペロンパーとは全然違うがクオスマネンもカウリスマキの映画には欠かせないキャラクターだ。

「街のあかり」2007年。監督・脚本・製作:アキ・カウリスマキ。出演:ヤンネ・フーティアイネン(警備員コイスティネン)、マリア・ヘイスカネン(ソーセージショップのアイラ)、マリア・ヤンヴェンヘルミ(悪党の女性ミルヤ)、イルッカ・コイヴラ(悪党)。
そしてこれもまたせつない愛の話だ。オウティネンはスーパーでレジを打っている。

こうしてみているとカウリスマキの作品はどれも気持ちの奥底からふるえるように切ないひたすらな愛の物語だ。役者たちは言葉少なに、表情もあまり変えずに淡々と演じきる。それを描く監督の懐深い愛情が観る者の心を暖かくすると思う。
Youtubeでオウティネンの短いインタビューをみると、カウリスマキの作品のセリフは「昔のフィンランド語で現代のフィンランド語とは違う厳格なリズムを持っている。今の若い人たちは使わないような言葉です。そういう古いセリフの言葉づかいは練習します」と言っている。
カウリスマキは小津に影響を受けたと読んだことがある。小津の作品も人形浄瑠璃のように役者が演じる型を積み重ねていくような印象があるが、カウリスマキはさらに言葉少なに記号的な型を組み立てているように見える。
古い厳格なリズムを持つフィンランド語とはどういうものなんだろう。

小津の映画でも原節子は今の若い人たちは決して話すことのないような古い女言葉を話す。1950年代の若い女性はこういう話し方をしていたのだろうか。
「お母様、わたくしを買いかぶってらしたんですわ。」
「いいえ、わたくしそんな、おっしゃるほどのいい人間じゃありません。」
「わたくしずるいんです。ずるいんです。そういうこと、お母様には申し上げられなかったんです。」

オウティネンが表情を殺して話す古いフィンランド語はこんな感じかしら。。。五七調のようなリズムがあったりするのかしら。。
聴き知らぬ言葉なので何とも言えないが、知らないゆえに普通に喋っているように聞こえるのが残念だ。




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by e3eiei | 2015-01-05 01:17 | 見聞 | Trackback | Comments(0)

2014年に見て記憶に残っている映画 備忘

  • 「愛を読むひと」(2008)監督:スティーヴン・ダルドリー、出演: ケイト・ウィンスレット(ハンナ・シュミット)。原作:ベルンハルト・シュリンク『朗読者』。

  • 「過去のない男」(2002)監督:アキ・カウリスマキ。 出演: イルマ :カティ・オウティネン、男 :マルック・ペルトラ .

  • 「ル・アーブルの靴磨き」(2011)監督:アキ・カウリスマキ .

  • 「マーサの幸せレシピ」(2001)監督・脚本:サンドラ・ネットルベック、 出演: マルティナ・ゲデック(マーサ).

  • 「ずっとあなたを愛してる」(2008) 監督・脚本:フィリップ・クローデル。出演: クリスティン・スコット・トーマス(姉・ジュリエット)、エルザ・ジルベルスタイン(妹・レア) 原題「Il y a longtemps que je t'aime」(英語「A long time ago that I like you」).

  • 「めぐりあう時間たち」(2003) 監督:スティーヴン・ダルドリー、 出演: ニコール・キッドマン、ジュリアン・ムーア、メリル・ストリープ .

  • 「ブリキの太鼓」(1979) 監督・脚本:フォルカー・シュレンドルフ、原作 ギュンター・グラス 。早稲田松竹1/23

  • 「バグダッド・カフェ」(1987=2008) 監督・製作・脚本:パーシー・アドロン。 ニュー・ディレクターズ・カット版(108分) 早稲田松竹1/23。

  • 「バグダッド・カフェ」(1987) 監督・製作・脚本:パーシー・アドロン。YouTube 3/1。95分版。87年版の方が好きだ。新版は画面がクリアーになった分説明的だし、後半が厚くなってわかりやすい友情物語にすり替わっているようだった。旧版のざらつく画面もこの作品のいわく言い難いせつない孤独感を伝えている。

  • 「バベットの晩餐会」(1987デンマーク)監督:ガブリエル・アクセル。

  • 「舟を編む」2013年 監督:石井裕也、原作:三浦しをん。出演: 松田龍平(馬締光也)、宮崎あおい(林香具矢)、オダギリジョー、小林薫、加藤剛、渡辺美佐子。

  • 「ぐるりのこと」2008年、脚本・監督:橋口亮輔。出演: リリー・フランキー、木村多江。

  • 「KAMIKAZE TAXI」1995年、監督:原田眞人、出演:役所広司、高橋和也。

  • 「ONCE ダブリンの街角で」2007年、アイルランド。監督:ジョン・カーニー、出演:グレン・ハンサード、マルケタ・イルグロヴァ。

  • 「この森で、天使はバスを降りた」1996年、アメリカ。監督・脚本:リー・デヴィッド・ズロトフ。出演: アリソン・エリオット(パーシー)、エレン・バースティン(ハナ)、マーシャ・ゲイ・ハーデン(シェルビー)。

  • 「遙かなる山の呼び声」1980年、脚本・監督:山田洋次。出演: 高倉健、倍賞千恵子、武田鉄矢、吉岡秀隆、ハナ肇。

  • 「浮き雲」1996年、監督・製作・脚本:アキ・カウリスマキ。敗者三部作第一作。出演:カティ・オウティネン、カリ・ヴァーナネン。マッティ・ペロンパー(1995年死亡)に捧げられた。12/21、DVD. どこまでついていないのかと沈み続けるが、最後の最後がハッピー・エンドとなる。

  • 「パラダイスの夕暮れ」1986年、監督・脚本:アキ・カウリスマキ、製作:ミカ・カウリスマキ。労働者三部作一作目。マッティ・ペロンパー(ニカンデル)、カティ・オウティネン(イロナ)。12/22、DVD. ゴミ清掃職員のニカンデルとスーパーのレジを解雇となったイロナの恋物語。

  • 「幸せはシャンソニア劇場から」2008年、監督・脚本:クリストフ・バラティエ。出演:ジェラール・ジュニョ(ピゴワル)、クロヴィス・コルニアック(ミルー)、カド・メラッド(ジャッキー)、ノラ・アルネゼデール(ドゥース)、ピエール・リシャール(ラジオ男)。

  • 「きみに読む物語」2004年、監督:ニック・カサヴェテス。原作:ニコラス・スパークス。出演:ライアン・ゴズリング(ノア)、レイチェル・マクアダムス(アリー)

  • 「グーグーだって猫である」2008年、原作:大島弓子、脚本・監督:犬童一心。出演: 小泉今日子、加瀬亮、上野樹里、吉祥寺。






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by e3eiei | 2015-01-03 01:06 | 見聞 | Trackback | Comments(0)

「恋におちて (Falling in Love)」 (1984年)を見る。

いつだったか、たまたまテレビをつけたら「恋に落ちて」をやってた。好きな映画の一つだったのだ、わあ!と思って見た。
ちょうどアパートのシーンだった。
そこから最後まで見たが、なんとも暗くて湿っぽい映画だった。もちろん、メリル・ストリープとロバート・デ・ニーロは若々しくて美しく80年代風にゴージャスなんだけど、、

あれえ、こんなあと味の映画だったっけ、と動画サイトを見ると字幕なしでアップされているのでアパートのシーンまでの前半を見る。

驚いたことに、ちょうどテレビで見た場面が作品のターニングポイントになっていた。
アパートに行くまでが偶然に出会った二人が恋に落ちるまでのキラキラした展開だった。デイヴ・グルーシンの「マウンテンダンス」の軽やかな音楽に乗って二人は実にテンポよく恋に落ちていくのだった。恋ってドキドキして惹かれあって会いたくって離れていると切なくてすぐに会いたくなって、っていう恋物語が友だちが鍵を貸してくれたアパートに行くまで。

モリーはデートに出かける前に鏡に映った自分の姿をまじまじと見て「What are you doing?」と二度つぶやく。
結局アパートで、モリーは自分でブラウスのボタンを開けベッドに横たわって抱き合いながら「・・I'm sorry....I'm sorry.」・・・「・・・I can't..」という。「何事もなく」デートは終わる。

後半はモリーとフランクのそれぞれの配偶者との関係が壊れそれを引き受けなければならない、不倫の恋の代償の展開なのだ。もはやマウンテンダンスの出る幕もない。


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by e3eiei | 2014-11-21 02:31 | 見聞 | Trackback | Comments(0)

平等/排除と民主主義、または正義

期せずして同じ文言をまったく異なる書物で目にする。

「あらゆる現実の民主主義は、平等のものが平等に取り扱われるというだけではなく、その避くべからざる帰結として、平等でないものは平等には取り扱われないということに立脚している。すなわち、民主主義の本質をなすものは、第一に、同質性ということであり、第二に、――必要な場合には――異質的なものの排除ないし絶滅ということである。」
(カール・シュミット『現代議会主義の精神史的地位』第二版への前書き、稲葉素之訳、みすず書房、2000年)原武史, 2010『滝山コミューン1974』講談社文庫, 7.

「平等と正義とのかかわりについて、考察してみよう。平等を論じることがなぜ正義の問題なのか。正義については数多くの定義がなされているが、もっとも単純で最も汎用性の高い定義から考えていきたい。正義のもっとも単純な定義は、<等しい者を等しく、等しくない者は等しくなく扱え>である。・・・」
岡野八代「ケア、平等、そして正義をめぐって――哲学的伝統に対するキテイの挑戦」エヴァ・フェダー・キテイ、岡野八代、牟田和恵, 2011『ケアの倫理からはじめる正義論:支えあう平等』白澤社, 26-7.



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by e3eiei | 2014-10-14 01:20 | 見聞 | Trackback | Comments(0)

警察ミステリー・その後(北欧ミステリー)

警察ミステリーが第二次マイブームになった2008年以来、とりわけイアン・ランキンのジョン・リーバス警部シリーズとイギリスの警部たちを楽しんだ。だが、リーバス警部も退職してしまい、2012年にミレニアムシリーズを3巻一気読みして、わたしの関心ももっぱら北欧に移る。
ただ、北欧ミステリーはまとまって翻訳されているわけでもないのでタラタラと読み継いでいる状態だ。その後読んだものも、大方はすでにぼんやりと記憶の底に沈殿している。
Amazonの注文履歴から少しでも思い起こせるものだけ記録しておこう。

ヘニング・マンケル
『背後の足音 』上下 (創元推理文庫)
『ファイアーウォール』 上下 (創元推理文庫)
『五番目の女』 上下 (創元推理文庫)
ヘニング・マンケルは途中から外連味が鼻についてくるのだ。おもしろいんだけどって、「だけど」がくっつく気がする。気にせずにハリウッド映画を見る気分でドーンと楽しめればいいと思う。

カーリン アルヴテーゲン
『喪失』 (小学館文庫)
スウェーデン。ホームレスとして生きる元令嬢が主人公。

アーナルデュル・インドリダソン
『緑衣の女』
アイスランド。前作の『湿地』が思いっきり冷え冷えじとじとしていたが、これは人間の血の通った温かみの感じられる、それゆえに切ない作品だった。

ユッシ・エーズラ・オールスン
『特捜部Q ―キジ殺し』
『特捜部Q ―Pからのメッセージ』
『特捜部Q ―カルテ番号64』
第1作『檻の中の女』がおもしろかったので読んだが、とりわけ『キジ殺し』などは生理的に気持ち悪く、あまりいい読後感はなかった。その後2作読んだが、新作はちょっといいかなと思っている。

ヨハン・テオリン
『赤く微笑む春』
第1作『黄昏に眠る秋』第2作『冬の灯台が語るとき』が何となくよかったので読んだが、印象が薄く、もはや思い出せないくらいになっている。新作はもういいかなと思っている。(石切り場のそばに暮らし始めた男が、疎遠だった父親の過去を探る話だった)

オーサ・ラーソン
『オーロラの向こう側』、『赤い夏の日』、『黒い氷』
Amazonの購入履歴には数冊残っているが読んだ記憶がない。

アンネ・ホルト
『悪魔の死』
『土曜日の殺人者』
『女神の沈黙』
ノルウェーの元法務大臣が書いた作品だそうだ。人間関係などおもしろかったが、少しウェットだった。

フィリップ・クローデル
『灰色の魂』
第一次世界大戦下のフランスの小さな田舎町が舞台となっていた。読んだときはいい作品だなあと思った記憶があるが、今となっては筋さえもあやふやだ。むしろ同じ作者のこちらはミステリーではないが『リンさんの小さな子』がいい物語だった。

カリン・フォッスム
『湖のほとりで』
ノルウェー。若い女性が被害者となり、子どもをめぐる心配、障碍をどう受け入れていくのか、家族と孤独など、小さな村の人間関係を通して現代社会の問題を描いている。静謐さが漂う作品だった。Wikipediaによるとセーヘル警部シリーズは邦訳されているのはこの一作だけだがこれまで10作品あるようなので、翻訳が楽しみだ。

ジョー・ネスパ
『スノーマン』
ノルウェー。

そしてイアン・ランキンの新たなシリーズ、警部補マルコム・フォックスの翻訳が始まったようなので、早速注文してみる。

追記(9/14)
ジェイムズ・トンプソン
『極夜 カーモス』
フィンランドのミステリ。フィンランドはアキ・カウリスマキのいくつかの作品を通してなんとなくイメージがある程度だった。土着的な、素朴な、他者に対して閉鎖的なというようなイメージ。この小説は、フィンランドの人々の暮らしぶりや文化、人との関係構築の仕方みたいなものを感じ取るにはいい素材だったと思う。作者はアメリカ人でその妻がフィンランド人なのだそうだ。第三者的観察で描かれていると言える。ただ、ミステリとしてはちっとも面白くなかった。犯罪の残忍さと暴力性が動機や容疑者と結び付きにくいし、謎解きもなんだかとってつけたようだし。もう一冊購入しちゃってるけど、読むかな。。





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by e3eiei | 2014-09-11 00:09 | 見聞 | Trackback | Comments(0)

ジョー・ネスパ『スノーマン』の登場人物など

1980年
サーラ・クヴィーネスラン
息子

警察
ハリー・ホーレ 警部
カトリーネ・ブラット 新入刑事
マグヌス・スカッレ 若年刑事
ビョルン・ホルム 鑑識課
グンナル・ハーゲン 刑事部長
エスペン・レプスヴィーク 中央捜査局。形式上の捜査パートナー(報告書作成)
ベアーテ・レン 鑑識課課長・パートナーのハルヴォルセンを亡くす。
ストーレ・アウネ 入院中の心理学者
クヌート・ミッレル=ニルセン ベルゲン警察

ラケル ハリーの元パートナー
オレグ ハリーとラケルの息子(本当の父はロシア)
マティアス・ルン=ヘルゲセン ラケルの現パートナー・医師

2004年
ビルテ・ベッケル 夜中に失踪
フィリープ・ベッケル ベルゲン大学の教授
ヨーナス 息子

1992年
ライラ・オーセン ベルゲンの山中で惨殺
オニー・ヘートラン ライラの近隣の友人・失踪
ゲルト・ラフトー ベルゲン警察・ライラ・オーセン事件捜査・失踪

2004年
シルヴィア・オッテルセン アフリカ雑貨店。森の小川を逃げて殺害される
ロルフ・オッテルセン シルヴィアの夫。アフリカ雑貨店
双子の娘姉妹
アーネ・ベデルセン シルヴィアの双子の妹

エーリ・クヴァーレ
アンドレアス・クヴァーレ エーリの夫
トリグヴェ エーリの息子・モンタナ大学経済学部3年

イーダル・ヴェトレセン ヨーナス、双子の娘姉妹がクレイトン病の診察を受けていた医師

アルヴェ・ステープ 雑誌『リベラル』編集長・ヴェトレセンの患者、カーリング仲間

カミッラ・ルッシウス 失踪
エーリク・ルッシウス <リッド&フリット>引越し会社経営者


北欧ミステリが次々と翻訳されているようだ。以前読んだ記事では、北欧には「ミステリ」というジャンルがなく、わたしの好きな警察ミステリも一般の大衆小説というカテゴリに分類されるらしい。その分、現在的な社会問題をテーマにした作風になっていくということのようだ。

ジョー・ネスパという人の作品もアマゾンであてずっぽうに選んだ。そしてまあまあおもしろかった。ただ、この作者の作品はこの一作しか翻訳されていないらしいのが残念だ。てっきりハリーとブラットがコンビを組んで、恰もリーバス警部とシボーンのように同僚以上恋人未満のような関係で活躍するのかと思っていたら、ブラットは早々にベルゲンに帰ってしまうらしい。本作がシリーズの第7作目とある。翻訳が出たらほかの作品も読むかもしれない。

ところで、H.マンケルを読んだときにも感じたことだが、映像を強く意識した構成になっている。これが好きな人は「映画を見ているよう」に読めると思うが、場面が次々と切り替わり、その累積で読ませるような手法は少々辟易する。
この『スノウマン』はとくに一般的なミステリであれば最初に表示してある登場人物一覧がなかったので、ことのほか読みづらく、結局自分で拵えてしまった。場面の切り替わりが早く、また何の説明もなく固有名詞がどんどん出てきて、誰が誰だったのか混乱するのだった。備忘のために記しておこう。




More 以下、ネタばれを含む感想。
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by e3eiei | 2014-09-09 16:44 | 見聞 | Trackback | Comments(0)